「聞く一つ」とは何を聞くのか
阿弥陀仏の本願は、「聞く一つ」ですべての人を無上の幸福に救い摂る、という命を懸けたお約束です。ゆえに親鸞聖人も蓮如上人も、「仏法は聴聞に極まる」と教えられています。
では何を聞くのでしょうか。それは仏願の生起本末です。
仏願の生起とは、阿弥陀仏の本願は、「どんな者」のために起こされたのか、ということです。
それを親鸞聖人は端的に、「火宅無常の世界に生きている、煩悩具足の凡夫のため」と『歎異抄』に仰っています。火宅無常の世界とは、いつ何が起きるか分からない、不安なこの世のことです。
安倍元首相が背後から銃撃されて死亡しました。白昼堂々、大衆の前で選挙演説をしていた、まさにその時、銃規制が世界で最も厳しいといわれる日本での凶行に、世界中が驚愕しました。67歳、やり残したことは山積だったでしょうが、そんな都合などお構いなしです。
お釈迦さまは、人間の実相の譬え話で、他人の死を見聞きした時の衝撃を、旅人が人間の白骨を拾うことに例えられています。しかもその白骨は、辺り一面に散らばっているのです。
「えっ、あの人が」という著名人のみならず、友人知人、親や夫婦、子や孫の死に至るまで、日々我々は白骨の上をざくざくと歩いているようなものです。
旅人はやがて前方の暗闇から、異様な唸り声と足音を聞きます。
闇を透かしてよく見ると、なんとそれは飢えに狂った猛虎でした。旅人は瞬時に白骨の意味を知るのです。これは、あの虎に食われた人間の残骸だ、そして今自分にも、同じ危機が迫っているのだと。
恐れた旅人は、一目散に来た道を逃げました。しかし虎はぐんぐん迫ってきます。猛虎の恐ろしい鼻息を感じて、もうだめだと思った時、どう道を迷ったのか、断崖絶壁に追い詰められてしまいました。
猛虎とは、無常の風(自分の死)を例えています。我々一人一人の背後に、飢えた虎が迫っているのです。
人間の営みは、死という猛虎からいかに逃げるか、といってもいいでしょう。しかし、どれだけ必死になっても逃げ切れるものではありません。
ところが我々は、背後に迫る猛虎を感じながらも、まだまだ大丈夫と油断し切って生きています。断崖絶壁に追い詰められてもなお、ああしたい、こうなりたいと、心は欲望を満たすことしか考えてはいないのです。これが煩悩具足の人間の実態です。
そんな者と見抜かれて弥陀は、「必ず救う」と誓われ、「聞く一つ」で頂ける南無阿弥陀仏の名号を完成してくださいました。
この仏願の生起本末に「疑心有ること無し」となるまで、聞き抜かせていただきましょう。
(R4.8.1)