弥陀に照育されて進む聴聞の一本道
人は何のために生まれ、なぜ生きるのでしょうか。有史以来、問われ続けてきた問いに、親鸞聖人は、「本願の大智海に開入するためだ」と『正信偈』に断言されています。
「本願」とは、「すべての人を、必ず絶対の幸福に救う」と誓われている阿弥陀仏のお約束です。その誓いを果たすために、弥陀は大宇宙の宝を結晶し、南無阿弥陀仏の「名号」を完成なされました。
その大功徳を蓮如上人は、
「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり
(御文章)
と絶賛されています。
六字の名号には、我々を絶対の幸福にする働きがあり、その力は無量無辺です。それゆえ釈尊でさえ、名号の大功徳は、生涯説き尽くせなかったと仰せになっています。
しかし、そんな凄い名号があっても、私たちが受け取らねば、本願の大智海に開入し、絶対の幸福に救われることはありません。
どうすれば名号を受け取らせ、人間に生まれてきた目的を果たさせられるか。名号を私たちに与えるために、種々にご苦労くだされている阿弥陀仏のお働きを「光明」といいます。
光明には、「遍照の光明」と「摂取の光明」があります。
我々の心は、例えれば岩石や木の根が複雑に入り組む盤根錯節した荒れ地です。その土を掘り起こし、石を取り除き、軟らかく耕さなければ、南無阿弥陀仏(名号)の仏種を下ろすことはできません。
朝から晩まで欲に引き回され、仏法を聞く気のカケラもない我々が、無常と罪悪に驚き、後生の一大事を知らされ、真剣に聞法せずにおれなくなります。
それは、何としても絶対の幸福に救おうと、我々の心を仏法を聞けるよう耕してくださる弥陀の強い願力の賜物であり、これを「遍照の光明」といいます。
この遍照の光明は、すべての人に注がれる弥陀の大慈悲であり、その照育によってのみ、我々は聴聞の一本道を進ませていただけるのです。
そして一念で南無阿弥陀仏(名号)を与え、絶対の幸福に救い摂ってくだされるのが「摂取の光明」なのです。
「摂取の光明」も、そこまで導いてくださる「遍照の光明」も、すべて弥陀の本願力だから、自分の力は微塵も入らないのです。
弥陀は一念で名号を与えようと、今も全身全霊、尽力なされています。その弥陀の御心を命懸けで聞く人が、「すべては弥陀の独り働きだった」と、本願の大智海に開入させていただけるのです。
(R5.5.15)