あなたの救われない唯一つの理由
蓮如上人は『御文章』80通で、弥陀をたのむ、弥陀をたのめなど、「たのむ」という言葉を100以上、使われています。それは上人が『聞書』に、
「たのむ一念の所肝要なり」
と仰せのとおり、弥陀をたのむことこそ、仏教で最も重い「肝要」だからです。
「仏教」とは、釈迦の説かれた教えをいいます。釈迦は一代の教説の結論として、『大無量寿経』に
「一向専念無量寿仏」
と仰せになりました。「無量寿仏」とは、大宇宙の仏方が師と仰ぐ阿弥陀仏のことです。
私たちを本当の幸福に助けてくださる方は、阿弥陀仏しかおられません。だから弥陀一仏に向け、阿弥陀仏だけを信じよ。この「一向専念無量寿仏」一つ説くことが、釈迦の任務だったのです。
ゆえに、釈迦如来の教法を正確に伝えられた親鸞聖人も、その聖人の教えを忠実に継がれた覚如・蓮如上人も、「弥陀に一向専念せよ」以外、説かれたことはありませんでした。
この「一向専念無量寿仏」を、蓮如上人が平易に言い換えられたのが、「弥陀をたのむ」です。
真の仏教を伝えてくださる方を「善知識」といいますが、それは「弥陀をたのめ」ということ唯一つ、教え勧める人なのです。
仏法を聞く側からいえば、聴聞の目的は「弥陀をたのむ」ことです。その身になるために、生まれがたい人間に生まれてきたのです。
かくも大事な「弥陀をたのむ」とは、いかなることか。それは「弥陀の御心を知る」ことに外なりません。阿弥陀仏が、そのご本意を漢字36文字で仰ったのが、「阿弥陀仏の本願」です。
仏教では「さとり」に52段あり、その最高位に到達された方を「仏」といいます。我々とは境界に52段の差があるから、不可思議な弥陀の本願をお聞きしても、理解できるはずはありません。
だから弟子の仏である釈迦は生涯を懸けて、阿弥陀仏の御心を詳説されたのです。釈迦の開いた弥陀の正意を、聖人は『教行信証』六巻に解明され、それを蓮如上人は、『御文章』にひらがな交じりで分かりやすく教えてくださっています。
弥陀の御心を知るには、正しい御心の分かられた善知識から、お聞きするしかありません。だから
「仏法は聴聞に極まる」
といわれるのです。弥陀の御心が知らされるのは、何億分の1秒より短い「一念」の瞬間です。その御心が知らされた一念に、絶対の幸福に救い摂られます。この「たのむ一念」が、聞法の決勝点であり、人生の目的が完成した時なのです。
同時に、それまで弥陀の御心に反し、背き続けてきた心が知らされ、一切の計らい心が廃るのです。弥陀の御心を計らう心を自力の心といい、これ一つがあなたの救われない唯一つの理由なのです。一切の計らい心(自力の心)が廃る一念まで弥陀の本願(御心)を聞き抜くことこそ、釈迦弥陀・善知識の最も喜ばれることなのです。