なぜ私だけ不幸続きなのか
苦海の人生に救助の大船あり。親鸞聖人の教えは、この一言に尽きます。
その高らかな宣言が、主著『教行信証』の冒頭、
「難思の弘誓は、難度の海を度する大船」
です。
次から次へと苦しみが到来する人生を、荒波の絶えない海に例えて、「難度の海」と言われています。すべての人は生まれると同時に、この大海に放り出されるのです。
なぜこんなに生きづらいのでしょうか。戦争のせいだ、コロナ禍が続くから、景気が悪いからと、目前の大波が原因だと思っている人が多いようです。
この波さえ乗り越えれば、幸せが待っていると期待しているのです。しかし、それらの波が過ぎ去ったところで、想定外の津波が押し寄せるだけでしょう。
日本の自殺率は、先進国で最も高いですが、昭和の終わり、バブル景気に浮かれていた頃の数字は、もっと高かった。たとえ戦争とパンデミックが終わり、首相の提唱する資産所得倍増プランが成功しても、苦海の荒波は減りも無くなりもしないのです。
難度の海に沈み、苦から離れ切れない私たちをご覧になった阿弥陀仏は、「すべての人を必ず無上の幸福に救う」という、大宇宙に二つとない誓願を起こされました。その崇高な誓いを聖人は、難度の海を明るく楽しく渡す大船に例えられています。
弥陀の誓願の船に乗せていただいたならば、どんなことがあっても変わらぬ絶対の幸福に救われます。
しかも向かう先は極楽浄土ですから、命終わると同時に浄土で仏に生まれることができるのです。大船に乗じて必ず浄土往生できる身になった大安心を、「往生一定」といいます。
苦海にあえぐ私たちが最も恐れているのは、土左衛門になることですから1日でも長く泳ぎ続けようと、一生懸命です。しかし最後は力尽き、死の大津波にさらわれていきます。ではその後は、どうなるのでしょうか。死んで旅立つ先が、サッパリ分かりません。
この後生暗い心を一念の瞬間に破り、往生一定の明るい心に生まれさせるお約束が、弥陀の誓願です。その誓願を疑っている心を「疑情」といいます。
この疑心がある間は、絶対に大船に乗せていただくことはできず、難度の海で永久に苦しまなければなりません。ですから親鸞聖人は、人生を苦に染める元凶は「疑情」一つと断言されています。
「往生一定に救う」と誓われた本願を疑っている人は、ある時は極楽へ往けるように思いますが、ある時は地獄へ堕つるのではと心配になります。疑情があるから、後生暗い心が出てくるのです。一切不安の源は疑情です。苦悩の根本を断ち切り、「よくぞ人間に生まれたものぞ」と心から喜べる身になりましょう。
(R4.6.15)