芥川の絶望をも救う弥陀の本願
「汝自身を知れ」。古代ギリシャの格言です。
今日、科学は急加速で進歩し、宇宙や遺伝子の謎は次々と解明されましたが、「私」の正体は、今なお、ベールに包まれています。
自分とは何か。即答できる人はいないのではないでしょうか。善人か、悪人か。わが身のことなのにハッキリしません。それは、「刀、刀を切ること能わず。目、目を見ること能わず」といわれるように、己が己に近すぎるからなのです。
自分を見失ったまま、どうして真の幸福になれるでしょうか。自己を正しく知ることは、幸せへの第一歩です。
親鸞聖人は、人間の真実の姿を「煩悩具足の凡夫」と『歎異抄』に断言されています。
仏教では、人間のことを「凡夫」といいます。我々を、煩わせ悩ませる「煩悩」は一人に108ずつあります。中でも恐ろしい「貪欲・瞋恚・愚痴」を三毒の煩悩と説かれています。
「褒められたい」「お金が欲しい」と、名誉や財などを求める心が貪欲、その欲が邪魔された時に噴き上がる怒りの心を瞋恚といわれます。直に憤怒を訴えられぬ相手には、妬み・恨み・憎しみの愚痴がトグロを巻く。そんな煩悩の塊が人間の実態であることを、「煩悩具足」と教えられています。
煩悩が恐ろしいのは、その本性が、自分の利益を最優先する「我利我利の心」だからです。普段は隠れていても、生きるか死ぬかの瀬戸際になると顔を出すのです。
芥川龍之介は、小説『蜘蛛の糸』で、自己中心的な本性を、カンダタに託して表現しました。血の池地獄で苦しむ罪人・カンダタを、お釈迦さまは、蜘蛛の糸を垂らして救おうとなされましたが、「自分さえ助かれば、他人はどうなってもいい」というカンダタの無慈悲な心が、再び彼を地獄へ堕としたのです。
もし自分がカンダタの立場なら、と考えてみるとどうでしょう。抑え切れぬ、醜い我利我利の本性に、戦慄するのではないでしょうか。
煩悩の燃え盛る、罪悪深重の我々を、大宇宙でただ一仏、本師本仏の阿弥陀仏だけが見捨てられず、「必ず救う」と誓われています。
平生の一念に、弥陀の誓願に救い摂られたならば、煩悩あるままで無上の幸福になり、命終わると同時に弥陀の浄土に往生し、永遠の幸せに生かされます。この不可思議な弥陀の救いに値うために、すべての人は生まれてきたのだと、親鸞聖人は鮮明になされています。
阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか。どう救うと約束されているのか。その誓いを果たすために、弥陀はどうなされたか。この仏願の生起本末に「疑心有ること無し」となる決勝点まで、阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。
(R5.4.1)