大悲を伝える 尽きぬ報恩行
朝晩の勤行で拝読する『正信偈』には、親鸞聖人が90年の生涯かけて教えられたことが凝縮されています。
その冒頭は、子供でも口ずさむほど有名な、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
の2行です。
「親鸞は無量寿如来に帰命いたしました。親鸞は不可思議光に南無いたしました」ということで、「親鸞は弥陀に救われたぞ。親鸞は弥陀に助けられたぞ」と高らかに表明されています。
※無量寿如来も、不可思議光も阿弥陀如来(弥陀)のこと
弥陀の救いはハッキリします。その広大無辺な歓喜は、どれだけ書いても叫んでも、尽きることがないのです。それは、すべての人へ伝えずにおれない最後の2行となって発露しています。
「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」
※道は僧侶、俗は在家の人
仏法を説く者、聞く者、すべての人々よ、どうか、親鸞とともに、同じ心になってもらいたい。それには、ただ、善知識(高僧)の教え・弥陀の本願を聞信する一念でなれるのだよ、と仰せです。
120行の『正信偈』は、この4行におさまると言っていいのです。
ひょいと入った蕎麦屋(そばや)が、今まで味わったことがないほど美味しかったら、「美味しかった、美味しかった」と言わずにおれませんし、「あなたも行って、食べてごらんなさい」と誰彼構わず勧めずにおれなくなるでしょう。
いわんや大宇宙の宝、無上宝珠の南無阿弥陀仏を丸もらいした至福は、とてもジッとしてはいられません。不可称不可説不可思議の、言葉にかからぬ無尽の法悦を、何としても伝えたいの一心が、親鸞聖人のあの熱烈なご布教となり、主著『教行信証』をはじめとする膨大な著作となったのです。
「弥陀の名号となえつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもいあり」
(浄土和讃)
他力の信心(南無阿弥陀仏)を獲得したならば、報謝の念仏を称える身となって、寝ても覚めても、この大恩いかに報ぜんの心が止まないのだと、聖人は仰います。
金や名誉のためではない。ただ、絶対の幸福に救いたもうた弥陀の大悲を、どうしたら伝えられようかと悩まれたのです。
事実、親鸞聖人のご一生は、弥陀の本願を明らかにすること一つに、「身を粉にしても、骨を砕きても」の恩徳讃そのままでありました。永久に尽きぬ報恩感謝の思いを、御臨末にはこう述懐されています。
「まもなく私の今生は終わるであろう。一度は弥陀の浄土へ還(かえ)るけれども、寄せては返す波のように、すぐに戻って来るからね」
南無阿弥陀仏と一体になれば、無量の智慧と、無辺の慈悲とに生かされます。いかに苦難の道であろうとも、受けし恩徳が限りないから、大悲を伝えて人を救う報謝の活動もまた、永遠なのです。