無常観と真の幸福
「無常を観ずるは菩提心の一なり」
と言われています。 無常とは、常がなく続かないことです。この世の全てのものは、絶えず変化しています。
7年8カ月という長期間、安倍一強といわれた政権も終わりました。健康も、財産も、権力の座も、やがては移り変わっていきます。
惚れた腫れたの色恋沙汰も、女心(男心)と秋の空、心ころころで冷めていきます。大きく変わるか、少しずつ変化するかの違いはあっても、次の瞬間から崩壊につながっているのです。
中でも最大のショックは、自分の死でしょう。努力して築き上げたどんな成功も、人生の幕切れでグシャリと握りつぶされます。膨らんだシャボン玉が、あっけなくはじけるようなものです。
生きるとは、死との戦いです。しかも、100パーセント負ける戦いなのです。その無常(死)を直視した時、初めて人は、本当の幸せとは何かを探し求めます。
その心を、菩提心といいます。
「なぜ仏教は、暗い死のことばかり言うのか。もっと明るい心になれる話を聞きたい」という声をよく聞きますが、全くの誤解です。
暗い死に向かってひた走る生に、どんな喜びがあるでしょうか。しかも、
「無常念々に至り、恒に死王と居す」(善導大師)
の金言どおり、今の一息一息は死と隣り合わせ。そんな暗い心を抱えて生きているから、何をどんなに手に入れようとも、真に明るい心になれないのです。
この生死の大問題を解決して、「人間に生まれてよかった!」という生命の大歓喜を獲得せよ、と教えるのが仏教です。
死をありのままに見つめることは、いたずらに暗く沈むことではなく、生の瞬間を太陽よりも明るくする第一歩なのです。
蓮如上人は『白骨の章』で、人生の無常を切々と訴えられています。
「我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず」
死ぬのはいつも他人で、自分が死ぬとは毛頭思えない、深い迷いの私たちに、「我や先だぞ」と警告されています。
連日報じられる死亡者の中で、「今日が私の命日だ」と覚悟して、朝、泣き泣き顔を洗った人があるでしょうか。私たちと全く同じ気持ちで「行ってきます」と家を出たに違いありません。しかし現実は、「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身」なのです。
だからこそ蓮如上人は最後に、
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」。
はやく後生の一大事を心にかけて、弥陀の救い(絶対の幸福)にあい、仏恩報謝の念仏する身になってもらいたいと仰っているのです。