決定のある信心とは
善知識方が朝夕、念じて下さっていることは「皆々信心決定あれかし」のほかにありません。私たち親鸞学徒が片時も急がねばならない「信心決定」とは、どんなことなのでしょうか。
「信心」というと世間では、特定の宗教を信仰していることを指します。天地創造の神や釈迦仏、観音菩薩などを信じている状態を「信心」といわれています。
では無宗教の人は信心と無縁かといえば、本来「信ずる」とは、「頼りにする」ことであり、その対象は神仏に限りません。夫は妻を、妻は夫を信じ、親は子を、子は親を頼りにしています。これだけ資産があるから老後は安泰と、金や財を力にしている人もあるでしょう。ネットには膨大な嘘がばらまかれていますが、今の時代、ネット情報を信じずに生活できるでしょうか。
広くいえばすべての人が、何かの信心を持って生きています。しかし親鸞聖人が詳説されたのは、それらとは異なる、阿弥陀仏の本願についての信心です。
弥陀は「どんな人も必ず絶対の幸福に救う」と、命を懸けて誓われています。この弥陀の本願を聞いている人の信心を、聖人は「自力」と「他力」に峻別されました。
まず「自力の信心」とは、弥陀のお約束を聞いて初めて起きる信心です。大宇宙に2つとない無上のご本願を、最初から素直に聞ける人は一人もいません。「どんな人もと言われるが、本当に私も助かるのだろうか」とか、「絶対の幸福なんて本当にあるのか」「必ず救うと仰せだが、今生で救われるとは思えない」などの疑心が、必ず出てきます。
真剣に聞こうとするほど疑いが噴出しますが、「釈迦は生涯、弥陀の本願一つ説かれたのだから」「親鸞聖人が、まことだったと仰っているから本当だろう」と、信じようとしているのを「自力の信心」といいます。それは自分の心で、本願を信じようと努めている信心です。
しかし煩悩いっぱいで虚仮不実しかない私たちに、本願を信ずる心はカケラもありませんから、自力の信心の間は、疑いはもう無くなりません。
聞法を重ね、弥陀の誓いどおり絶対の幸福に救い摂られた一念に、「本願まことだった、本当だった」と疑い晴れたのを「他力の信心」といいます。これは「自分の心」で信じようとする自力の信心とは根本的に異なる、「阿弥陀仏のまことの心」を頂いた信心です。
弥陀より他力の信心を賜って、本願に対する疑いが金輪際、なくなったことを「信心決定」といいます。
「決定」とは露塵ほどの疑いもなくハッキリすることです。決定、完成のある信心を獲得するには聞く一つ。私たちの生きる道は明らかです。激しい欲、怒り、愚痴の煩悩にひるんで、聞法の機会を失ってはなりません。
(R4.8.15)