ご生誕850年に誓う
親鸞聖人のお言葉を流麗な筆致で記した『歎異抄』は、カミソリ聖教といわれています。大人が使えば重宝なカミソリも、子供が持つと自他ともに傷つけるように、『歎異抄』は、聖人の教えを正しく理解した上で読まなければ、自損損他、大怪我をするからです。
誤解されやすい文章は全編にわたっていますが、第4章にも、次の一文があります。
浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり
『歎異抄』全体に念仏が強調され、ここも「念仏すれば仏になれる」と誤読する人が多いところです。
また、「往生即成仏」が親鸞聖人の教えと知る人は、仏のさとりを開くのは、この世ではなく浄土に生まれてからだから、早く死んで成仏するのが浄土の慈悲なのか、とも思うでしょう。事実、「急ぎ仏になりて」を、死に急がせていると批判する者もいます。
いずれも誤りです。
なぜなら、念仏称えれば、誰もが浄土で仏になれるのではないからです。
涅槃の真因は唯信心を以てす
(教行信証信巻)
浄土往生の真の因は、ただ信心一つである、と聖人は断定されています。現在、信心決定し、正定聚(仏になれる身)になっている人のみが、浄土に生まれて成仏できる。これこそが親鸞聖人の生涯かけての教導であるからです。
ならば、「念仏して急ぎ仏になりて」は、「早く信心決定して、正定聚の身になりて」であり、この念仏は他力の念仏であることは明白でしょう。
思う存分、大慈大悲心をもって衆生を救うのは、浄土で仏のさとりを開いてからですが、今生で弥陀に救われ無上の幸福に生かされれば、止むにやまれぬ報恩の情熱は「弥陀の大悲」を伝えずにおれなくなって当然なのです。
29歳で信心決定なされてからの聖人の、燃ゆる恩徳讃の生きざまは目を見張るものでした。
天下を驚かせた破天荒の肉食妻帯も、法友との三大諍論も、35歳の越後流刑、晩年の悲痛な長子善鸞の勘当も、すべての人を救い切る弥陀の本願のご布教であり、まさに浄土の慈悲の実践というべきでしょう。
聖人のご生涯は、「衆生済度は死んでから」などという消極的・退嬰的信仰とは無縁でありました。
親鸞学徒の往く道もまた、かくありたいものです。
今年は親鸞聖人ご生誕850年。受けし大恩に感泣し、弥陀の本願を伝える一大勝縁と奮起して、浄土の慈悲に徹しましょう。
みな活かす 注ぐ法雨の 上はなし(高森先生)
(R5.1.1)