足下に迫る生死の一大事
なぜ仏教は聞かねばならないのでしょうか。後生は一大事だからです。ですが迷い深き人間は、この世どう生きるかに一生懸命で、死後の行き先など、かすりもしません。確かに一難去ってまた一難、息つく間もなく苦悩が押し寄せます。そんな人生を、聖人は荒波やまぬ海に例え、「難度の海」と仰せです。
大海に投げ込まれた我々に、難度の波濤は容赦ありません。コロナの大津波で疲れ切っているところに、戦争の台風が猛威を振るっています。これから物価高騰、景気後退の大波が、何年続くかしれません。
誰もが溺れたくない一心で、近くの丸太や板切れにしがみつきます。それら浮遊物に例えられたのは、金や財産、家族・友人、健康、仕事、地位などの生きがいです。
人は何かを頼らなければ生きられません。生きがいは、生活に欠かせぬ大切な手段です。しかし、どんな丸太を手に入れても、最後はすがる力も尽き、一切から見放され暗い海に沈んでいきます。たった一人で、次の世はどこに旅立つのでしょうか。これ以上の大問題はありませんから、「生死の一大事」といわれます。
現世も来世も苦しみの全人類に、救助の大船が厳存すると指授された方が、親鸞聖人です。主著の『教行信証』冒頭に、
「難思の弘誓は難度の海を度する大船」
と宣言されています。阿弥陀仏は、難度の海(人生)を明るく楽しく渡し、極楽浄土まで連れて往く、大きな船を造ってくださったのです。
その大船に一刻も早く乗せていただき、必ず浄土へ往ける大安心の身となり、生死の一大事を解決しなさい。聖人90年の生涯、これ以外のお勧めはありませんでした。では、どうすれば大船に乗せていただけるのでしょうか。釈迦も親鸞聖人も、「大船を造られた弥陀の御心(本願)を聞く一つ」と教示されています。
ですが悲しいことに、真剣に聞法しようとすればするほど、気づかされるのは真剣になれない心です。誰かがヒソヒソ自分の悪口を言っていたら、耳をそばだてるでしょう。今年から高校でも金融教育が始まり、政府は「貯蓄から投資へ」と呼びかけています。投資も危険ですが、物価が上がれば貯蓄も危険です。ならば老後にどう備えるか、そんな話には目を輝かせますが、最も重大な後生は、少しも大事と思いません。「今日こそ大船に乗せていただこう」と、解決を急ぐ心がないのです。
視界に入るのは生きがいの丸太だけで、大船を見る眼がないから、乗りたいとすら思っていないのが実態です。屋上から身をのり出す子供と同様、危険を危険と知らないから一大事なのです。そんな私たちを、寸刻も休まれず「必ず浄土へ往ける幸せ」に救わんとされている、大悲の阿弥陀如来、師主知識の洪恩を知り、報いなければなりません。
(R4.7.15)