平生業成と恩徳讃
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし
(親鸞聖人・恩徳讃)
身を粉に、骨砕きても報い切れぬは、如来大悲の大恩と師主知識(※)の洪恩だと、親鸞聖人は仰せです。
「如来大悲」とは、阿弥陀如来の大慈悲心のことです。慈悲とは、苦しみを抜き取り、幸せを与えてやりたいという抜苦与楽の心をいいます。
私たちにも、可哀そうな人を見ると助けてやりたい慈悲の心はありますが、情けないかな続きません。わが子への慈悲でさえも、親の思い通りにならないと腹が立ちます。ましてや他人の子は、わが子ほどにも思えません。小慈悲と言われるゆえんです。
阿弥陀如来の大慈悲は、万人平等の不変の慈悲であり、十方諸仏とは比較にならないズバ抜けた智慧を具(そな)えています。
かつて大宇宙の諸仏方も、苦悩の人々を何とか救おうとされましたが、あまりに罪悪深重、煩悩熾盛の極悪人ゆえに、可哀そうだが「助ける縁なき者」と見放すしかありませんでした。そんな我々を諸仏の師・阿弥陀如来だけが、「私が必ず助けよう」と奮い立たれて崇高な大願を建てられたのだと、蓮如上人はこう明記されています。
弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、(乃至)弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」という超世の大願を発して我ら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて
(御文章2帖目8通)
この弥陀の誓いを、阿弥陀仏の本願といいます。まさに大宇宙にない無上の誓願であり、親鸞聖人は『教行信証』の冒頭に
難思の弘誓は難度の海を度する大船
と喝破されています。
苦しみの絶えない人生を「難度の海」に例え、想像もできない救助の「大船」のあることを明言されています。
欲や怒り、ねたみそねみや執着で、人は死ぬまで苦悩します。そんな煩悩具足の我々が、平生の一念に、弥陀の大船に乗せられると、煩悩の波は増えも減りもせぬままで、輝く光明の広海と転じ、来世は無量光明土とハッキリいたします。
その驚きと感激、慶びは、人生の目的どころではありません、多生にも億劫にもない無上の幸福と知らされますから、「弥陀の大恩は、身を粉にしても足りませぬ。導きたもうた善知識の洪恩も、骨砕きても済みませぬ」と嘆かずにおれないのです。
「死んだらお助け」や曖昧模糊とした救いで、熱火の法悦はありえません。ただ今、平生業成の救いに値えばこそ、恩徳讃と燃えるのです。
※師主知識……仏教の師、善知識ともいう
(R4.11.1)