念仏を峻別された親鸞聖人
「念仏者は無碍の一道なり」
(『歎異抄』第7章)
“弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りとならぬ、絶対の幸福者である”
親鸞聖人は高らかに宣言されています。
コロナのせいで、会話も外出も集会もままなりません。どこを向いても障壁の人生で、一切の障りが障りにならぬ「無碍の一道」こそ、万人の願いでしょう。
聖人は私たちに、一刻も早く念仏者になり、この絶対自由な世界に勇躍してくれよと教導されています。
「念仏者」と聞けば、「南無阿弥陀仏と称えている、すべての人」と思うでしょうが、同じ涙でも、 “うれし涙”やら“悲し涙”“くやし涙”などいろいろあるように、口では同じく念仏を称えていても、称え心はまちまちです。
法然上人は、念仏を自力と他力に大別され、親鸞聖人は、さらに細かく3通りに分類されました。
まず「万行随一の念仏」といわれるのは、「孝行や親切などの諸善よりも勝れているのが念仏」ぐらいに思って称える念仏です。
次に「万行超過の念仏」とは、「南無阿弥陀仏には諸善とケタ違いの大功徳が収まっている」と信じ、一心に称えている念仏です。
これらは、いずれも称えた功徳で助かろうとしていますから、「自力の念仏」と総括されています。
3番目の「自然法爾の念仏」は、必ず浄土へ往ける大安心に救われたうれしさに、称えずにおれないお礼の念仏であり、「他力の念仏」ともいわれます。「聖人一流章」で、
「その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と、心得べきなり」
と示された、報恩感謝の念仏です。
親鸞聖人も蓮如上人も、早く弥陀に救い摂られ、報謝の念仏を称えるよう勧められていますが、それは決して、救われるまでは念仏を称えなくてよいとか、称えるな、ということではありません。
『御文章』では、自力の念仏について、幾度も教示されています。
「皆人の心得たる通は、何の分別もなく、口にただ称名ばかりを称えたらば、極楽に往生すべきように思えり。それはおおきに覚束なき次第なり」
(5帖目11通)
世間の人は、念仏に何の区別もせず、ただ称えてさえいれば、死んだら極楽と思っていますが、それは大きな誤解です。ここで蓮如上人が強調されているのは、自力の念仏では報土へは往けないということであり、称える必要はないとは、どこにも書かれていません。
信仰が進めば必ず、念仏を称えずにおれなくなり、その心も万行随一から万行超過に変わっていくのです。そして、無碍の一道(絶対の幸福)に飛翔し、自然法爾の念仏を称える身になることが、われらの出世本懐、昿劫多生の目的なのです。