永久に変わらぬ智者になろう
後の世を渡す橋とぞ思いしに 世渡る僧となるぞ悲しき
“源信よ、母は悲しんでいます。人々を弥陀の浄土へ渡す、懸け橋になってくれると思っていたのに、世渡り上手の僧になるとは悲しい限りです”
幼少より比叡山で仏法を学んだ源信僧都は、たちまち頭角を現し、若くして天台宗を代表して、朝廷で説法をされるまでになりました。感嘆した天皇から与えられた褒美を、源信は故郷の母に送り、喜びを報告しましたが、母は手つかずで返されました。そして冒頭の歌が添えられていたといいます。
予想外の母の戒めに、深く懺悔された源信は、釈迦一代の教えを学び尽くされ、後の世を渡す真の僧侶となられました。その源信を親鸞聖人は七高僧の一人として深く尊敬なされています。
この歌の「後の世」とは、「死後」のことです。
死ねばどうなるか、ハッキリしない心を、「後世に暗い心」といいます。「後世」を知るか否かで、仏教では、「智者」と「愚者」とに判別されます。
八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす、たとい一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを智者とすと言えり
(蓮如上人の『御文章』)
“たとえ一切経を丸暗記していても、「死後どうなるか」分からぬ人は、愚者である。たとえ、無学の人でも、行く先の死後がハッキリしている人は智者であると明言されている”
私たちの100パーセント確実な未来は、死です。死ねばどうなるか、後生が暗いままでは、心からの幸せにはなれないことを、「愚者」の言葉で教えられているのです。
阿弥陀仏は、「苦悩の根元である、後世に暗い心を晴らし、絶対の幸福に救う」と命を懸けて誓われています。これを「弥陀の本願」といいます。
平生に弥陀の願力によって後生明るい心に救われたら、来世は「弥陀の浄土」とハッキリします。旅立つ先が、「無量光明土」(限りなく明るい世界)に決まるのですから、これほど素晴らしいことはありません。この最高無上の幸せになった人を「智者」といわれるのです。
真剣な聞法に身を沈め、永久に変わらぬ智者となり、出世の本懐を果たさせていただきましょう。
(R5.6.15)