「王舎城の悲劇」に示される釈迦弥陀の方便
親鸞聖人は「王舎城の悲劇」を、登場人物すべてが仏の権化であり、それぞれの役で演技なされたお芝居と見ておられます。ならば王舎城の悲劇全体が、仏方による芝居形式の説法となりましょう。それは何を伝えるためだったのでしょうか。
子供欲しさに修行者を殺し、都合が悪くなるとわが子さえ殺そうとした韋提希夫人は、罪悪深重・煩悩具足の十方衆生の代表です。
その韋提希夫人が、獄中で阿弥陀仏のお姿を拝見し救われたことから、どんな者でも、阿弥陀仏は一念でハッキリ救い摂ってくだされると明らかにされています。
それだけではありません。韋提希夫人が弥陀の救いに値うまでの心の道程も、万人共通の道程であることが知らされます。そうでなければ、仏方の演じられたドラマが、私たちとは関係のない、無意味なお芝居となってしまうでしょう。
提婆・阿闍世の策謀で、獄に入れられた韋提希夫人は、彼らへの恨み憎しみで狂い回りました。今の地獄が己の種まきの結果とは毛頭思えぬ韋提希夫人は、お釈迦さまにまで八つ当たりしました。
そんな韋提希夫人の愚痴を、釈迦は黙って聞かれるのみでした。過去の種まきを振り返らせ、自業自得と反省させる厳しい無言の説法であったのです。
投げても投げてもはね返ってくる愚痴のボールに韋提希夫人は、一層苦悶の淵へと落ちていきました。
「私は何のために生まれてきたのか。来世は二度とこんな地獄は見たくない。お釈迦さま、どうか私を苦しみのない安楽な世界へ行かせてください」と泣き崩れる韋提希夫人を、釈迦は巧みに導かれます。
やがて韋提希夫人の口から「弥陀の浄土へ往生したい」と発せられた時、釈迦は会心の笑みをもらされました。その心を起こすことが、弥陀が十方衆生を18願へ誘導するために建てられた19願の狙いであり、それを現出することが、弟子である釈迦の大切な使命であり、出世本懐だったからです。
弥陀の浄土へ往けるなら、なんでもしようと思う心を「自力の心」といいます。この「自力の心」のある間は、弥陀の18願「他力の世界」には入れません。
浄土を希求する韋提希夫人に、釈迦は定散二善を説かれます。これが『観経』の説法であり、弥陀の18願の救いにあわせるための釈迦の方便でありました。
釈迦弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまいけり
(高僧和讃)
巷には「弥陀の救いを求める人に、善の勧めは不要」などの妄説もあるやに聞きます。王舎城の悲劇は仏方が芝居をしてまで示された三願転入の道のりであることが、あまりにも知られていないようです。
(R5.3.1)