素晴らしきかな、無碍の一道
親鸞聖人が90年の生涯かけて教えられたことは、阿弥陀仏の本願ただ一つでありました。大宇宙の無量の諸仏に本師本仏と仰がれる阿弥陀仏の、本当の願いであり、お約束です。
弥陀の本願を、聖人は『歎異抄』1章に、「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願」と仰っています。弥陀が「助ける」と誓われている相手は、欲や怒りの煩悩が激しく燃え盛り、罪悪が極めて深く重いすべての人間なのです。
親鸞聖人は万人の実相を、『一念多念証文』に、こう喝破されています。
「凡夫というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず」
“人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみの煩悩の塊だ。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。もちろん、断ち切れるものでは絶対にない”
最後の一息まで、減りも、消えもしない煩悩で、私たちは一生、悪を造り続けているのだよ、と言われています。
そんな煩悩の塊の我々を、阿弥陀仏はどう助けると誓われているのでしょうか。『歎異抄』7章の、「無碍の一道」がそれです。
碍りとは、日々私たちを苦しめている煩悩のことです。無碍とは、その煩悩が「なくなる」のではありません。「障りにならなくなる」ということです。「一道」とは、絶対の世界をいいます。
来る日も来る日も、欲に引きずり回され、怒りで身を焼き、嫉妬に狂っています。まさに煩悩以外に何もないのが人間の実態ではないでしょうか。
つかんだ幸せも、煩悩によって壊される。だから、心を静め、欲や怒りをコントロールして、少しでも苦しまないように努力します。最近ブームの「アンガーマネジメント」や「マインドフルネス」なども、要するに煩悩を何とかしようとする試みでしょう。
しかし、煩悩具足の我々に、どうして煩悩をコントロールできましょうか。親鸞聖人が仰るように、一瞬たりとも煩悩は「止まらず消えず絶えず」なのです。
そんな私たちが、「煩悩あるがままで絶対の幸福になれる」と親鸞聖人は仰せです。「考えられない。あるはずないよ」と誰もが言うでしょう。もっともです。
しかし、聖人は、「ある」と断言されています。弥陀の本願は、煩悩あるがままで、死んだらどうなるか分からない闇の心をぶち破り、浄土往生一定とハッキリした絶対の幸福に救い摂る、無上の誓願だからです。
この「無碍の一道」こそ、人生の目的であり、「生まれてきてよかった」の生命の大歓喜が起きるのです。