誤解されている念仏
念仏者は無碍の一道なり(『歎異抄』第7章)
弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りとならぬ絶対の幸福者である。聖人は高らかに宣言されています。
「念仏者」と聞けば、「南無阿弥陀仏と称えている、すべての人」と思うでしょうが、同じ涙でも、“うれし涙”やら“悲し涙”“くやし涙”などいろいろありますように、口では同じく念仏を称えていても、称え心はまちまちです。
法然上人は、弥陀に救われる前と後とで、念仏を自力と他力に大別されましたが、親鸞聖人はさらに細かく3通りに分類されました。
まず「万行随一の念仏」といわれますのは、「孝行や親切などの諸善よりも勝れているのが念仏」ぐらいに思って称える念仏です。
次に「万行超過の念仏」とは、「南無阿弥陀仏には諸善とケタ違いの大功徳が収まっている」と信じ、専ら称えている念仏です。
これらは、いずれも称えた功徳で助かろうとしていますから、「自力の念仏」と総括されています。
3番目の「自然法爾の念仏」は、必ず浄土へ往ける大安心に救われたうれしさに、称えずにおれないお礼の念仏であり、「他力の念仏」といわれます。
『歎異抄』には「念仏」という言葉が多いですが、すべて弥陀に救われた(信心獲得した)人の称える「他力の念仏」です。
親鸞聖人も蓮如上人も、早く他力の念仏を称える身になるよう勧められていますが、それは決して、「救われるまで自力の念仏は称えなくてよい」とか、「称えるな」ということではありません。
自力の念仏の誤解を、蓮如上人は重ねて正されています。
皆人の心得たる通は、何の分別もなく、口にただ称名ばかりを称えたらば、極楽に往生すべきように思えり。それはおおきに覚束なき次第なり(『御文章』5帖目11通)
世間の人は念仏に何の区別もせず、「ただ称えてさえいれば、死んだら極楽」と思っているが、それは大きな間違いだと教えられています。ここで強調されたのは、自力の念仏では報土へは往けないということであり、称えなさるなとは、どこにも言われていません。
信仰が進めば必ず、念仏を称えずにおれなくなります。念仏が少ないのは、信仰の浅い証拠でしょう。それを曲解して「念仏の数さえ多ければよいのだ」と、諸善を軽視する人もいます。テレビや運動のついでに称え、そのカウントを日課としているようです。娯楽を兼ねた念仏で、信仰が何ミリ進むのでしょうか。
自力の念仏は称える必要はないとか、称えてさえいればよいとか、楽したい者ばかりです。真剣な聞法が肝要なのは勿論、仏法讃嘆と教学で、聞き誤りを徹底的に正さねばなりません。後生は一大事なのです。
(R4.9.15)