徹底せよ「宗の極致」
親鸞聖人の開かれた「浄土真宗」は、日本最大の仏教宗派です。略して「真宗」ともいい、門徒の数は人口の1割を超えます。しかしそれは形ばかりで、肝心の教えは、ほとんど知られていません。
聖人90年の教えを、覚如上人は端的に、こう表されています。
「真宗においては、専ら自力をすてて他力に帰するをもって宗の極致とする」(改邪鈔)
「専ら」とは「すべて」のことですから、真宗の教義は「自力をすてて他力に帰する」以外、何も無いとの確言です。それは親鸞聖人が唯一つ説かれた、最も大事な真髄であることを、「宗の極致」と言われています。
自力を捨てて他力に帰する真意が分かれば、聖人の教えは全て分かります。ですから「自力」と「他力」ほど大切な仏語はありません。しかしどちらも日常語になっており、本来と懸け離れた使い方をされています。
通常「自力」といえば、他人や機械に頼らず、一人でやり遂げたことを指します。「遭難者が自力で下山」とか、「自力で生活」など、「自力イコール自分の力」が常識です。もしそれが正しければ、「自力を捨てよ」とは、一切の努力をやめよということであり、死ぬよりほかなくなってしまいます。仏教の真実を誰も知らぬ、これは一つの表れでしょう。
仏教で「自力」とは、「阿弥陀仏のお約束(本願)を疑っている心」だけをいいます。弥陀はすべての人間の苦しみの根元を、「死んだらどうなるか分からぬ心」と見抜かれています。新型コロナは収束の兆しも見えますが、本当の恐怖は半年後、耐性を持つ変異株が現れ、気温の下がる秋だという指摘もあります。先が読めないと、今が不安で仕方がありません。
感染症を乗り越えても、最後は死なねばなりません。死後どうなるか、旅立つ先がハッキリしない人に、生命の歓喜はないのです。人生を苦に染める「後生暗い心」(死んだらどうなるか分からぬ心)を破り、必ず極楽往生できる大安心に救うと誓われたのが、弥陀の本願です。
この弥陀の誓願を「本当だろうか」と疑っている心だけを「自力」といいます。
次の「他力」も誤用が甚だしく、他人や天地自然の力だとされています。しかし元来「他力」とは、後生暗い心を破り、後生明るい心にしてくださる「不可思議の弥陀の願力」のことです。「自力の心を斬り捨てて、極楽往生をハッキリさせてくださる力」のみを他力というのです。
「自力をすてて他力に帰する」とは、本願を疑う自力の心が無くなって、他力によって必ず往生できる身になることです。この未来永遠の幸福を獲得することこそ人生の目的であり、真宗の教えはこの外にはありません。知らされた者から、まず「自力・他力」の誤解を正し、宗の極致を広くお伝えしましょう。