私が幸せになれない唯一つの理由
真の知識にあうことは
難きが中になおかたし
流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなき
(親鸞聖人)
「苦しみの根元は疑情一つと説く本当の仏教の先生には、めったに遇うことはできない」と教えられたご和讃です。
すべての人は生まれると同時に、荒波の絶えない大海に放り出されるようなものです。「生きる」とは昨日から今日、今日から明日へと懸命に「泳ぐ」ことです。しかし見渡す限り水平線、どこに向かって泳げばよいか、まったく方角が立ちませんから、近くの丸太や板切れを目指すしかありません。
例えば、大学に合格すれば幸せになれる、就職、結婚、出世すれば、子供が一人前になれば幸せになれると信じ、それらの丸太に向かって必死に泳ぎます。すがった時は達成感を味わえますが、それは一時の満足でしかありません。
派遣会社のある男性は、正社員になれば結婚相手が見つかると夢みて、真面目に働きました。念願の正規雇用を果たし婚活を始めたものの、今度は収入が問われます。これでは「あら探しをされるようなもの」と失望し、仕事に打ち込むことにしたといいます。しかしリストラや倒産、病気、介護などの波に襲われたら、正社員の丸太も安泰ではありません。海面の浮遊物に頼る限り、やがて捨てられ潮水のまされる時が必ず来ます。そうと分かっていても、何かにすがらねば生きられないのです。
丸太を求めては裏切られを際限なく繰り返し、苦しみ続けることを「流転輪廻のきわなきは」と聖人は言われています。では、なぜ苦の無限ループから逃れられないのでしょうか。欲や怒り、ねたみそねみの煩悩が原因と思っている人ばかりです。贅沢にはキリがありませんから、最低限の生活をする「ミニマリスト」になって満足しようとしたり、怒りを抑える技術を学ぼうとしたり、多くの人は煩悩をコントロールして幸福になろうとしています。
しかし煩悩しかない私たちに、煩悩を減らしたり無くしたりすることなど、できるはずがありません。苦しみの原因を間違えているから、幸福になれないのです。
万人の最も知りたい、また知らねばならぬ苦悩の根元を、親鸞聖人は「疑情一つ」と断言されています。疑情とは「無明の闇」ともいわれ、死んだらどうなるか分からない「後生暗い心」のことです。
本師本仏の阿弥陀如来は、私たちを無始より迷わせてきたこの無明の闇を一念で破り、「いつ死んでも浄土に往けるに間違いなし」とハッキリした後生明るい心に必ず救い摂ると誓われています。
苦悩の根元と、それを断ち切る弥陀の誓願を正しく説き切ってくださる方が「真の知識」です。多生にも遇えぬお方から、真実の仏法を聞かせて頂ける私たちの幸せは、いかに喜ぼうと過ぎることはないのです。
(R5.7.15)