お盆とはどんなことか
盆といえば、都会の人も地方の実家へ帰り、墓参りするものだと思っている人が多いでしょう。
東京の会社に勤める若者が、早めに夏休みをもらって富山へ帰省しました。早速、墓参しようとすると、「まだ来とらっしゃらんからダメや」と親から言われたといいます。盆の数日だけ地獄の釜の蓋が開き、先祖が墓に戻るという迷信は根強いようです。
途中、道に迷わぬよう、藁棒に火をつけて川などで振り回す“迎え火”の風習もあります。
果たして、地獄へ堕ちた死者に盆休みはあるのでしょうか。亡くなった人の行き先は変わるのでしょうか。
釈迦の弟子も、「死人の周りでありがたい経文を唱えると、善い所へ生まれ変わるのでしょうか」と尋ねています。黙って小石を近くの池に投げられた釈迦は、「池の周りを、石よ浮かび上がれ、と唱えながら回れば、石が浮いてくると思うか」と反問されています。
石はその重さで沈んでいったように、人は自身の行為(業力)によって死後の報いが定まるのです。どんな経文を読もうと、死人の果報は変わりません。
『歎異抄』5章にも、
「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず」
(親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏一遍、いまだかつて称えたことがない)
と仰っています。
仏教は、後生の一大事から始まり、その解決に終わる。後生とは、「後世」ともいわれる来世のことです。蓮如上人は、
それ、八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす、たとい一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを智者とすと言えり
(御文章五帖)
後世を知るか否かで、智者と愚者を峻別されています。七千余巻の一切経を熟知していても、後世を知らねば“愚者”であり、たとえ無学の者でも、後世を知る人は“智者”と言われています。
川に屋形船を浮かべ、人生を謳歌していても、行く手には瀑布(ばくふ)が待ち構えています。この世を健康で豊かに暮らすことも大事ですが、後生こそ一大事なのです。
お盆は、後生はどうなると、故人を縁に自身に問い詰め、真剣に聞法する日なのです。平生の一念に弥陀の本願に救い摂られ、絶対の幸福になれば、死ぬと同時に弥陀の浄土へ往き、弥陀同体の仏に生まれることができる。これを「往生一定」といいます。一大事の後生は、平生の一念に解決できるのです。
怒涛の滝は目前に迫っています。
(R5.8.15)