「生きる目的」と「大悲の願船」
人は生まれた時に、空と水しか見えない大海原に放り出されるのだ、と親鸞聖人は仰っています。
泳がなければ沈むだけ。大海に放り出された私たちは、一生懸命泳がなければなりません。
では、何に向かって泳ぐのか。方角立たずに、むやみやたらに泳いでいれば、やがて心身ともに力尽き、土左衛門になるのは明らかです。しかし、そうと分かっていても、私たちは泳ぐしかないのです。
やがて泳ぎ疲れると、近くの浮いた物にすがらずにおれません。
ようやく小さな板切れにすがりついて、ホッと一息つく間もなく、思わぬ方からの波をかぶり、板切れに見放され、塩水飲んで苦しみます。
あれは板切れが小さかったからだと思い直し、もっと大きな丸太ん棒につかまって、いい気分に浮かれていると、そこに落とし穴が待っています。巨大な波に襲われて、またしても塩水飲まされるのです。
いや、もっともっと大きな丸太ん棒なら、こんなことにはならなかったのだと、死ぬまで苦しみの人生は果てしがありません。
親鸞聖人は、人生を難度の海(苦しみの海)と道破されています。
誰も彼もが、目的も分からぬまま、ただ生きることに必死です。
板切れや丸太にたとえられているのは、金や財産、地位や名誉、家族などの生きがいです。これらは生きるためには必要なものですが、やがて必ず自分を見捨てて離れていきます。いよいよ死んでいく時は、平生、頼りにしていたもの全てに見放され、たった一人で後生に入っていかなければなりません。
これら、生きがいの正体を、親鸞聖人は
「よろずのこと皆もって、そらごとたわごと、真実あることなし」
と断言されています。
ところが私たちは、その生きがいを追いかけることに没頭し、どう生きるか、どう生きるか、と生き方しか考えていません。太閤秀吉でさえ臨終に、「夢のまた夢」とはかなく散ったというのに、「いや、俺の信じるものだけは大丈夫」という根拠のない妄想に死ぬまで取りつかれ、肝心の生きる方角、「なぜ生きる」を考えようともしていないのです。
やがて必ず死なねばならないのに、なぜ苦しくても生きねばならないのでしょうか。おかしな話ではありませんか。「なぜ生きる」の一大事は、まさに全人類の盲点なのです。
この古今東西のすべての人が最も知りたい疑問に答えられた方が、親鸞聖人なのです。
聖人は、この果てしない苦しみの海から、絶対の幸福に救い摂り、必ず極楽浄土へ渡してくださる大きな船がある、と言われています。これを「大悲の願船」とも仰り、この「大悲の願船」に乗ることこそが、「なぜ生きる」の答えだから、早く乗せていただきなさいよと、親鸞聖人は、私たち全人類に向かって宣言なされているのです。
大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、至徳の風しずかに、衆禍の波、転ず
(教行信証行巻)
大悲の願船に乗って見る人生の苦海は、千波万波きらめく明るい広海ではないか。順風に帆をあげる航海のように、なんと生きるとは素晴らしいことなのか。