夢のあと、旅立つ先は?
東京オリンピックの感動が去って、コロナの猛威に慄く夏です。
1日の感染者は2万5千人を超え、重症者も増える一方。感染状況は「制御不能」とまで言われ、見えないウイルスとの闘いは、いまだ視界不良です。
基礎疾患のない自宅療養中の30代男性が、体調急変して死亡しました。若いからと安心できません。
さらに、熱中症の搬送者数は、8月初めの1週間に約8千人で、うち14名が死亡と報じられました。送迎バスに取り残された園児が、熱中症で亡くなるという痛ましい事故も起きています。大雨の土砂崩れで亡くなる被害も後を絶ちません。
まさに世は火宅無常です。
蓮如上人は有名な「白骨の章」に、古今東西の人間の生き様を「浮生なる相」と仰っています。
浮いた物を求め、すがりついて生きている我々の実相です。科学が進歩しても、当てにならぬものを当てにしている煩悩具足の実態は少しも変わりません。
「上見て暮らすな、下見て暮らせ」と言われるように、情けないかな、不幸な人と比べて喜ぶ相対の幸福しか知りませんから、本当の安心も満足もありません。
「この世の始中終、幻の如くなる一期なり」と蓮如上人が仰せのように、人の一生は、夢幻のようにはかないものです。
「我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず」
死はいつも他人事で、自分はまだまだ大丈夫と思い込んでいますが、とんでもない妄念です。死ぬのは「我や先」だぞ、とズバリ仰っています。
それでも死を遠くに眺めている私たちに、「今日かもしれぬ、明日かもしれぬ」と切り込まれます。
今日が自分の命日だと覚悟して目覚め、顔を洗う人は一人もないでしょう。「行って来ます」と元気に出掛けた人が、突如として帰らぬ人になっているのです。
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身」なのです。
この世のどんな成功者も、最後の一息尽きたなら、顔から血の気が引いて、火葬場で焼かれた後に残るのは、一つまみの白骨に過ぎません。
懸命に生きてきたのは何だったのか。死んで旅立つ先はどこなのでしょう。ハッキリしないままでは一大事ではないでしょうか。
ゆえに蓮如上人は、「白骨の章」の最後に
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」。
みな人よ、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏の本願(お約束)まことだったと、往生一定、絶対の幸福に救われ、仏恩報謝の念仏する身になってもらいたいと、私たちに人生の目的を教授なされているのです。