運命の不可解を説き明かす仏教
人の幸不幸は何によって決まるのでしょうか。すべての人が最も知りたいと同時に、最も分からぬことです。人生は、生まれた時から不可解です。なぜこの時代、この国に、特定の両親の元に生を受けたのでしょうか。生まれつき才能や体躯に恵まれる人もいれば、ハンディを負う人もいます。自分が、このような人間として生まれるという重大事を、誰が決定したのでしょうか。
一寸先は闇といわれますが、過日も築8年のアパートで階段が崩落し、居住する女性が亡くなりました。その2時間前、別の住民は異変に気づき、管理人に連絡したといいます。ほんのわずかな差が生死を分けました。
なぜ、そんな不幸が起きたのか、どれだけ考えても分からないと、「運が悪かった」と、「運命」のせいにします。何か不可解な力が与えた、「悪い運命」としか思えないのでしょう。では、その運命なるものは、誰が定めたのでしょうか。
世界の3人に1人がキリスト教、4人に1人がイスラム教を信じているといわれますが、両宗教とも天地創造の神が、我々の運命を作ったと説明します。各国で猛威を振るう新型コロナウイルスが、300万以上の命を奪ったのも、神の罰と言われたら、「神の意志は分からない」と、あきらめるしかありません。
また、自分の不運は親のせいと恨む人もありますが、子供を苦しめようと思って生む母が、どこにいるでしょうか。果ては、不幸が続くのは先祖のたたりと脅す者もいますが、少し考えれば矛盾に気づきます。誰しも、自分の家族は子々孫々に至るまで、幸せになってほしいと願います。子孫に逆恨みをする者など、親でもなければ先祖でもありません。
運命はあまりに不可解ですから、昔も今も、めいめい勝手なことを言い触らしているのです。
2600年前、インドに生まれたお釈迦さまは、それら一切の迷信邪教を切り捨てられ、人間の幸不幸は例外なく「自業自得」だと喝破されました。世間では、ヘビースモーカーが肺ガンになったり、遊んでばかりの学生が留年した時など、悪い場面でのみ、あれは自業自得だとささやかれます。しかし「自業」とは、自分の行為のことであり、善い行いもあれば、悪い行いもあるのです。
仏教で「自業自得」とは、自分の運命の全ては、自分の行為が生み出すということですから、努力して試験に合格したり、金メダルを取ることも入るのです。
善い行いをすれば、幸福という善い結果が現れ、悪い行いをすれば不幸や災難が引き起こります。自分の運命は例外なく、自分の行為が決めるのです。この「因果の道理」は、時空を超えた、いつでもどこでも正しい真理であり、仏教の根幹ですから、幸せに向かって深く心に刻みましょう。