弥陀の本願に疑い晴れる一念
誠なるかなや、
摂取不捨の真言、
超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
(教行信証・冒頭)
無上の幸福に救われた親鸞聖人の大歓喜です。
阿弥陀仏の本願を「摂取不捨の真言」「超世希有の正法」と言われ、「弥陀の本願、まことだった」と断言されています。
法座の誘いを断り、たまに参っても他事を考えているのは、弥陀の救いから逃げ回っている姿です。そんな者を追いかけ、ガチッと絶対の幸福に摂め取り、永遠に捨てぬとの弥陀の誓願ですから、「摂取不捨の真言」と言われます。
どんな人も平生の一念に、その身に救い摂るという、大宇宙に二つとないお約束ですから、「超世希有の正法」とも仰っています。
しかし、その凄いお誓いを、初めから素直に聞ける人はありません。「絶対の幸福なんてあるだろうか」「私もなれるのか」と疑いの心が出てきます。
親鸞聖人もそうでしたが、弥陀のお約束どおりに救い摂られた一念に、ツユチリほどの疑いもなくなり、「誠なるかなや」と叫ばれています。
卑近な例ですが、「世界一の畳部屋が富山にあるよ」と聞き、「そんな広い所があるのかな」と訝る人も、二千畳へ足を踏み入れるや、「本当だったー」と疑い晴れるようなものです。
夢の浮世に「まこと」はありません。臨終には、頼りにしてきた家族も、金や財産も剝ぎ取られ、丸裸でこの世を去らねばなりません。
蓮如上人は、
まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ
(御文章1帖目11通)
と警告されています。
大坂城から天下を睥睨し、贅を尽くした太閤・秀吉も、「難波のことも夢のまた夢」と世を去っています。朝鮮や明まで征服する野望は泡沫と消え、のちに豊臣を滅ぼす家康に、跡取りの秀頼を託すしかありませんでした。
やがて裏切る幸せしか知らず、悲劇の滝壺に向かう人生、どうすれば絶対の幸福になれるのか。弥陀の救いは「聞く一つ」です。聖人は、「聞思して遅慮することなかれ」、もたもたせずに、早く聞き抜きなさいと激励されています。
「なぜ生きる」の答えは、弥陀の本願を聞き開き、摂取不捨の幸せになる以外にありません。世界の法友が遠路、二千畳に参詣するのも、これ一つのためなのです。
「弥陀の本願まことだったー」と明らかに知らされるまで、真剣な聞法に身を沈めましょう。
(R5.11.1)