慶喜と懺悔が一体の信楽
阿弥陀仏の本願を、親鸞聖人は簡潔にこう教えられています。
「若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ」
(浄土和讃)
「若不生者のちかい」とは、「全人類を必ず救う。若しできずば命を捨てる」という弥陀の熱願です。それは一言でいえば「信楽」にしてみせるという誓いだと、聖人は徹見されました。だから「信楽まことにときいたり」、弥陀の命を懸けられた本願があるから、信楽という心になる時が必ず来ると言い切られています。
では「信楽」とは何でしょうか。「信」は死んだらどうなるかハッキリした後生明るい心、「楽」は「人間に生まれてよかった」と大満足した心です。
先のご和讃では、「信楽」という無上の幸福に救われたら「一念慶喜する」と続けられています。弥陀の救いは決して、いつとはなしではありません。「一念」という何兆分の1秒よりも短い時間で、晴れて信楽に生まれる。同時に、天に舞い地に躍る喜びが起きるから、「一念慶喜」と言われているのです。
そうなった人は「往生かならずさだまりぬ」、間違いなく浄土に往ける身になるのです。それだけではありません。慶喜の裏に懺悔のあることを、こう仰っています。
「真心徹到するひとは
金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと
ひとしと宗師はのたまえり」
(高僧和讃)
「真心」とは、「真実信心」の略です。この心は弥陀より賜る「信楽」であり、世間でいうような、自分の心で神や仏を信じている「信心」とは全く異なります。
「真心徹到する」とは、信心が終着点まで到達したことであり、「卒業した」「完成した」ということです。他宗教では「まだ信じ方が浅い。もっと深く信じよ」などといわれますが、真実の信心は弥陀より賜った一念に完成いたしますから、浅いも深いもありません。万人共通、絶対の信心なのです。それはどんなことがあっても微動だにしない堅固な信心ですから、ダイヤに例えて「金剛心」ともいいます。
真実の信心が徹到して大慶喜する人は、「三品の懺悔」と等しい懺悔が起きると善導大師(宗師)は教えられています。三品の懺悔とは、目から熱涙、全身から熱汗を流す下品の懺悔、血涙・熱汗を流す中品の懺悔、満身から血の汗と涙を噴き出す上品の懺悔の三種です。宇宙最尊の弥陀の誓願を疑っていた大罪を知らされ、身を裂く無二の懺悔をさせられた一念に、本願に対する疑心が永久に無くなります。
慶喜と懺悔が一体の「信楽」を獲得せずば、人に生まれし甲斐はありません。
(R4.10.15)