「おかしな話」の解決を
浄土真宗の祖師・親鸞聖人は、4歳でお父様、8歳でお母様を亡くされ、「次は自分が死ぬ番だ」と激しい無常に驚かれました。
9歳で出家される時に詠まれたというお歌は有名です。
「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
人は皆、「明日がある」と信じて生きています。明日になったら、ああしよう、こうしようと計画して眠りに就きます。しかし、「明日ありと思う心」は、明日になれば、また「明日ありと思う心」です。その次の日もまた、「明日あり」と思います。どこまでいっても、その心は続きますから、実は「永遠に生きていられる」と思っていることになります。
それが正しければ、死ぬ人はいないはずですが、現実には夥(おびただ)しい死者が連日報じられています。不慮の事故や災害、突然死、銃の乱射、深夜の火事で焼死体となって発見される事例もよくあります。
生まれた以上、死は避けられないのに、「永遠に明日あり」とは、何とバカげた考えかとあきれますが、人間誰しも「自分が死ぬ」とは全く思っていないのです。ですから心は常に「どう生きるか」で埋め尽くされます。生き方しか考えていないのです。
その愚かさを聖人は、「仇桜」と喝破されています。
映画『なぜ生きる』の中で、蓮如上人もこう言われています。
「私たちは生まれると同時に、どう生きるかに一生懸命です。少しでも元気がないと『頑張って生きよ』と、励ますでしょう。だが、少し考えてみれば、おかしなことです。やがて必ず死なねばならないのに、なぜ苦しくても生きねばならないのでしょうか。おかしな話ではありませんか」
まさに、古今東西万人の「おかしな話」なのです。
死ぬことを「他界した」と言います。他の世界へ行った、ということですが、どんな世界かは誰も知りません。「天国へ行った」ともよく聞きますが、本当にそうなら死を悲しむこともないし、慰霊祭も不要でしょう。幸せな霊を慰める必要がないからです。
元気な時は、「死は休息だ」「永眠だ」「恐ろしくないよ」と気楽に考えていますが、健康診断で異状が見つかったとたんに狼狽します。死んだらどうなるか、全く分からないからです。確実な未来が真っ暗がりですから、人生の本質は不安にならざるを得ないのです。これを仏教では、後生の一大事といいます。
親鸞聖人は、この一大事の解決一つを求めて仏門に入られ、29歳の時、阿弥陀仏の本願によって、いつ死んでも浄土往生間違いない身に救い摂られました。全人類を無上の幸福に雄飛させる無碍の大道が、かくて開かれたのです。これこそが浄土真宗です。
(R4.7.1)