生まれ難い人間に生を受けた目的
仏教とは、釈迦の説かれた教えです。釈迦がこの地球に現れた目的は唯一つ、大宇宙に阿弥陀如来という仏のましますことを説かれるためでありました。あらゆる仏の師である弥陀は、
「どんな人も必ず絶対の幸福に救う」
と誓われています。そのお約束を、弥陀の本願といいます。
全人類は幸福を求めて生きていますが、我々の知っている幸せは全て、「相対の幸福」といわれるものです。
人間は何事も、比較しなければ判断できません。棒が1本しかなかったら、「長い」とも「短い」とも言えないでしょう。他と比べて初めて、「鉛筆より長い」とか、「柱より短い」と言えるのです。しかも比べる物によって、同じ棒が長くもなり、短くもなります。
幸不幸の感情も、何と比較するかで決まります。隣に大きな家が建つと、自宅がみすぼらしく見えて、面白くありません。反対に、困窮している家庭を見聞きすると、自分はまだ恵まれていると感謝できます。ですがそれも一時の喜びで、他人の幸せそうな姿が目に入るたびに、妬みそねみが噴き上がります。
このように、他と比較して喜ぶ幸福は、不安定で続きません。しかし政治や経済、科学技術が与えるのは、そんな楽しみばかりです。人類は、相対の幸福しか知らないのです。
いつ壊れるか分からない、刹那の快楽を追い求める人生は、常に不安が付きまといます。それでは、生まれてきてよかったという生命の歓喜は、望むべくもないでしょう。
生まれ難い人間に生を受けたのは、どんなことがあっても変わらぬ、絶対の幸福になるためです。だからこそ弥陀はすべての人を、この世は絶対の幸福に救い、死ねば必ず浄土に生まれさせると誓われているのです。
弥陀の誓願は、この世から無上の幸福に救いたもうお約束です。その御心を、釈迦が分かりやすく解説してくださったのが、「本願成就文」といわれるお言葉なのです。
その成就文で、釈迦は弥陀の救いを
「即ち往生を得、不退転に住す」
と解明されています。
「即ち」とは、これ以上短い時間のない、「一念」の瞬間をいいます。「往生」とは、生まれ変わって往くことです。
平生、弥陀に救われた一念で、心が大転換することを、「即ち往生を得る」と明かされています。
では、どう生まれ変わるのか。次に「不退転に住する」と教示されています。それは、決して崩れることのない、絶対の幸福になることなのです。
その至福に救い摂られるには、弥陀の本願を聞く一つ。聴聞の一本道を進ませていただき、永久に輝く生としましょう。