「人生の目的」と「生きる手段」の峻別
目的があるから手段があります。
目的なしの手段はありえません。
誰でもうなずくでしょう。目的を果たすための手段であるからです。
ところが、これが人生となると、途端に分からなくなってしまう。
「人生の目的なんかなくたって、生きていけるよ」という人が、あまりにも多いからです。目的なき人生に虚しさを感じないほど、盲目的なのでしょうか。
「いや、人生の目的はあるよ」という人もありますが、それらの人は、何を人生の目的と思っているのでしょうか。
金だ、地位だ、名誉だ、財産だ、結婚だ、子供だ、家を建てることだ、旅をすることだ、といいますが、それらは、火事に遭えば焼けて灰になる、大津波で流されます。そして死ぬときには、必ず私を見捨てて離れていくものばかりです。
蓮如上人はそれを、こう喝破されています。
「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」(御文章1帖目11通)
本当に頼りになるものは何もありません。だから人生は底無しに寂しいのです。
「独生独死 独去独来」
と釈迦が仰せの通り、人は皆、孤独な魂を抱えて生きています。親にも子にも、夫婦、兄弟、友人にも、部下にも上司にも、誰にも分かってもらえない、無底の寂寥感に震えています。
この孤独は、どんな政治形態になっても変わりません。海外に行こうが、科学の進歩で宇宙に飛び出そうが、経済がどんなに繁栄しようが、孤独地獄はそのままです。
なぜでしょう。
それらは、真の人生の目的ではないからです。
もちろん、政治、経済、科学、医学、倫理、道徳、法律などは、生きるためには必要であり、衣食住に関わる、とても大事なものです。
いわば、生きる手段です。
しかし、目的なき手段が無意味であるように、人生の目的を知らずに、衣食住をどれほど充実させても、ゴールのない円周を走り続けるようなもの。心からの安心も満足もなく、流転輪廻あるのみです。
やがて死を迎えた時には、真っ暗がりの後生に入っていかなければなりません。
この後生の一大事を解決して、「人間に生まれてよかった」の生命の歓喜を獲ることこそが、人生の目的なのです。阿弥陀仏の本願力で、生きてよし死んでよし、絶対の幸福に摂取された一念に、それがハッキリします。
同時に、政治、経済、科学などは、この目的を果たすための、生きる手段であったと鮮明になるのです。仏法には、そのことが教えられています。
「人身受け難し、今すでに受く。
仏法聞き難し、今すでに聞く」(釈尊)