体験談 自己宣伝の ほかはなし
もし信心獲得(しんじんぎゃくとく=阿弥陀仏に救い摂られたこと)した人が1万人いるとして、それらが皆、救われるまでの具体的な体験を書いたとしても、同じになる人は誰もない。
信仰を求める道は、人それぞれ違うからである。
畑を耕している時に後生が苦になった、風呂に入っている時獲信した、等々、いつどこで、どのように、という事実は、各人各様、1万人いても、皆違う。
毛頭同じにはならないし、まねしてもなれない。
だから、親鸞聖人も、覚如上人も、蓮如上人も、どこにも書いておられない。
教える必要がないからであり、聞く必要もないからだ。
しかし、信心獲得までの心の道程は、万人、皆同じである。
親鸞聖人は三願転入と教えられた。
言うまでもなくそれは、阿弥陀仏のお力によって、十方衆生が通らせていただく道だからである。
教学とは、獲信(信心獲得)の体験話を聞くことではない。
そんなもの読めば読むほど、迷うだけ。
そんな体験談を聞きたがる心こそ、実に迷いの親玉なのである。
こうなった 仏法使って 自慢する
体験談 自己宣伝の ほかはなし