親鸞学徒の本道 親鸞聖人の教えをひたすら開顕する (1/3)
専ら親鸞聖人の教えと
他力の信心徹底に努める親鸞会
多く沈滞する中で、親鸞会はどうして躍進し続けるのか、原因探求の声が聞こえてくる。
更に珍しいことはない。親鸞会の歴史は、ひたすら親鸞聖人の教えの開顕だった。
「私はああだった」「こうなった」は私事である。
私事を説かれなかった覚如上人、蓮如上人のように、専ら親鸞聖人の教えと、他力の信心徹底に努めてきた結果と知る人は少ない。悲しいことだ。
これが親鸞学徒の本道だからである。
明治の活動家は何を誤ったか
織田信長を相手に石山戦争を11年戦っても屈せず、江戸時代の学者・頼山陽をして、「抜き難し、南無六字の城」と驚嘆せしめた真宗門徒。その気概はしかし、徳川幕府に利用され、骨抜きになってしまった。
参照:南無六字の城 信長に徹底抗戦した護法の力は、こうして生み出された
明治以降、その堕落した浄土真宗を再興しようとした人は、5人や10人ではない。その運動は一時、爆発的に燃え上がり、「今親鸞」と称される者も出たが、すべて線香花火で終わっている。
覚如上人や蓮如上人と、これら明治の活動家は、どこが違ったのだろうか。
明治から昭和にかけて、一大信仰運動を興した活動家のうち、主だった人を挙げてみよう。
明治29年、清沢満之(きよざわまんし)は、東本願寺の腐敗を座視できぬと、京都で本願寺改革を試みた。この運動に血気盛んな学生も参加し、革新全国同盟会2千5百、革新請願署名者は2万人に達した。
その後、清沢は、東京に私塾「浩々洞」を開いて、塾生と宗教を論じ、講話を行うようになる。ここから、暁烏敏、多田鼎、曽我量深、金子大栄などの仏教学者が生まれ、自分の背丈以上の書物を著す者、永年、仏教講座を開く者も現れた。
清沢の改革運動に参加した1人・近角常観(ちかずみじょうかん)は、収容人数1千名弱の「求道会館」を東京に建設し、後進の育成に力を注いだ。特に青年が多く集まったと伝えられる。
異色なのは、野依秀市(のよりしゅういち)だ。商業雑誌を発行していたが、独占企業への値下げ提唱の行き過ぎなどで、投獄される。そこで、浄土真宗の教誨師に出会い、親鸞聖人の教えに引かれていった。出獄後、布教のための雑誌を次々に発刊。死ぬまで刊行を続けた。