【親鸞聖人750回忌 講演】
弥陀より賜る二種の廻向
「寄せかけ寄せかけ」大悲のままに (2/6)
平生の一念に「往生一定」
ところが親鸞聖人は、
「死ねば安養浄土に還帰す」
と明言されています。
安養浄土とは、阿弥陀仏の極楽浄土のことですから、「弥陀の浄土へ往くぞ」と、聖人は後生が明らかであった。これを「往生一定」といいます。
世間では、「往生」という言葉を、死んだことや困ったことに使っていますが、大変な誤解です。「往」とは極楽浄土へ往くこと、「生」は仏に生まれることですから、極楽へ往って仏に生まれることを「往生」というのです。極楽へ往けば直ちに仏になれますから、往生即成仏とも言われます。「一定」とは、ハッキリすることで、この反対は「不定」です。
阿弥陀仏の救いにあえば、いつ死んでも弥陀の浄土へ往って、仏に生まれることがハッキリしますから、「往生一定」と言われるのです。
『領解文』に、
「たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ」
とあるように、往生一定の身になるのは、弥陀に救われた「平生の一念」の時です。
皆さんが、今日、ここへ来られたのは、この弥陀の一念の救いにあうためです。
一念とは、1秒よりも短い時間で、あっという間もない。弥陀の救いは、だんだんでもなければ、いつの間にか風邪が治った、というようなものでもない。一念にハッキリいたします。
なぜ弥陀の救いは一念なのか。3分かかる救いでは、あと1分しか命のない人を救うことはできません。あと1秒しか命のない人、今死ぬ、という最悪の人でも、弥陀は一念で「往生一定の身」に助けてくださるのです。
29歳で「往生一定」の身になられた親鸞聖人は、それから61年間、『恩徳讃』のお心で、衆生済度に大活躍なさいました。肉食妻帯も、三大諍論も、弁円の済度も、全ては如来大悲の洪恩と師主知識の大恩に報いるための報謝のご活躍でした。
>>娑婆往来の無限の救済