止まらない御名号本尊への流れ|親鸞会 顕正新聞 (4/4)
親鸞聖人の教えと矛盾せざるをえない本願寺の実情
では、本願寺教学センター所長という立場の者が、数多の末寺住職たちが理解に困惑する文章を、なぜ書かざるを得なかったのだろうか。
それは親鸞聖人のご教示に反して、本願寺は本山はじめ、別院、末寺に至るまで、過去何百年もの間、木像本尊で通してきた、どうにもならぬ現実があるからだ。親鸞聖人の教えと矛盾する冷厳な現状に苦慮しているのである。
木像・絵像本尊も名号本尊も「どちらも正式」で「全く同等」どころか、本山をはじめどの寺も木像一辺倒になっている事実は、親鸞聖人の教えにしたがうよりも、ありがたがられる金ピカの仏像で、賽銭を多く出させたい本音そのものだろう。
親鸞学徒の本道を往く親鸞会は、常に親鸞聖人のお言葉を丁寧に、分かりやすく解説することで親鸞聖人の教えを明らかにする。本願寺が根本に尊ぶべき本尊から浄土真宗の教えに反していることを、親鸞会は、親鸞聖人の教えを示して重ねて指摘してきた。
名号本尊の「親鸞聖人の教え」と、木像・絵像本尊の「本願寺の現状」が、本願寺の本尊論を破綻させているのである。
速やかに過去の過ちを認め、親鸞聖人の教えにしたがい、南無阿弥陀仏の六字の名号を御本尊とする以外、本願寺のとる道はないことが、このたびの本尊論の破綻によってもいよいよ明らかになったといえよう。