親鸞聖人750回忌法要勤修(最終日)|親鸞会
親鸞聖人750回忌の3日目の午前は、2日間のご説法で分からなかったところを高森顕徹先生に質問し、答えていただく座談会が開かれました。3日間、高森顕徹先生から親鸞聖人の「御臨末の御書」について聞かせていただいた法友の感動の一部を、紹介しましょう。
※プライバシー保護のため、仮名で記載してあります。
※「御臨末の御書」とは、弘長2年11月、ご往生が近づかれた親鸞聖人の、最後のお言葉です。
「助けたい心がない」のになぜ?
新潟県 上杉雅信
「阿弥陀仏のご恩は90年や100年の活動で、とても返し切れるものではない。一度は極楽へ帰るけれども、すぐにこの娑婆へ戻ってきて阿弥陀仏の救いを伝えるぞ。苦しみ悩む人が一人もいなくなるまで、寄せては返す波のごとく無限に活動せずにおれないのだ」という親鸞聖人のご臨末のお言葉を聞かせていただき、私は「親鸞聖人は大慈悲心を持たれた仏の化身のような方。世界の光といわれて当然だ」とうなずいていました。
ところがそのあと、「そのような親鸞聖人だから、世界の光といわれているのではない」とお聞きし、驚きました。
それまでの考えが引っ繰り返され、「ならば、どうしてですか」と心の中で聞かずにおれませんでした。
そして
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
(悲歎述懐和讃)→(意味は、※1を参照ください)
小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもうまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき
(悲歎述懐和讃)→(意味は、※2を参照ください)
のご和讃を出され、「親鸞は苦しんでいる人を助けてやりたいという心も、阿弥陀仏のご恩に報いようという心も全くない」と仰っていることを教えていただき、さらに驚きました。
「人から何かもらってさえ礼を言うのだから、まして阿弥陀仏に絶対の幸福に助けていただいたら、お礼を言わずにおれなくなり、恩徳讃(※3を参照ください)の心が起きるのだろう」と思っていたからです。
これまで何度も「真実の心も清浄の心もないのが我々」と教えていただいているのですから、驚くこと自体、何も分かっておらず、自分に真実の心や清浄の心があるとうぬぼれている姿と知らされました。
■※1
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし (悲歎述懐和讃)
(意訳)弥陀に救われても、まことの心は微塵もない。ウソ偽りのこの身には清浄な心もさらにない。
[語句解説]
・浄土真宗に帰する……阿弥陀仏の本願に救い摂られる。信心決定する。
・真実の心……まことの心。(「真実の信心」のことではない)
・虚仮不実……ウソ偽り。
・清浄の心……純粋で清らかな心。
「心を清らかにするための仏教」「清浄の心にならないようなら、仏教を聞く意味がない」という人があります。しかし、親鸞聖人は、「阿弥陀仏に救われたが、ウソ偽りばかりで、まことの心も清浄な心も全く無い」と言い切っておられます。
■※2
小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもうまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき (悲歎述懐和讃)
(意訳)微塵の慈悲も情けもない親鸞に、他人を導き救うなど、とんでもない。弥陀の大悲心あればこそ、人のすべてが救われるのである。
[語句解説]
・小慈小悲……小さな慈悲の心。
・有情利益……人々を助けること。幸福にすること。
・如来の願船……阿弥陀如来の本願を、船に例えられてのこと。
■※3
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし (恩徳讃)
(意訳)阿弥陀如来の高恩と、その本願を伝えたもうた方々(師主知識)の大恩は、身を粉に骨を砕きても済まない。微塵の報謝もできぬ身に泣かされるばかりである。
すべて阿弥陀仏からの賜りもの
親鸞聖人は『教行信証』に阿弥陀如来の二種の廻向一つを教えられていることを教えていただきました。
謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向有り。
一には往相、二には還相なり。
(教行信証教巻)→(意味は、※4を参照ください)
私たちは必ず死ぬのに、死んだらどうなるか、確実な行き先がハッキリしていません。これは全人類の大きな重荷です。そんな私たちを何とか助けてやりたいと阿弥陀仏が与えてくださるのが往相廻向であり、この往相廻向を頂くと、往生一定の身になり、重荷が消えて、生命の大歓喜が味わえると教えていただきました。
同時に、還相廻向を頂くから、「恩徳讃」や「御臨末の御書」の心が起きるのであり、全て阿弥陀仏からの賜りもので、親鸞聖人に真実の心があったからでないと教えていただきました。
■※4
[語句解説]
・浄土真宗……親鸞聖人は真実の仏教のことを「浄土真宗」と言われた。
・廻向……差し向ける、与えるの意。
・往相……「往生浄土の相状」の略。いつ死んでも浄土往生間違いなし、という往生一定の身になったこと。
・還相……「還来穢国の相状」の略。阿弥陀仏に救われ、浄土往生した人が、娑婆世界に還って衆生済度すること(恩徳讃)。
・教行信証……浄土真宗の根本聖典。御本典ともいわれる。親鸞聖人の教えの全てが記された主著。
なぜ「世界の光」なのか、疑問が氷解
真実の心も感謝の心も全くない、助かる縁手掛かりのない極悪人を絶対の幸福に救うとともに、そんな者が苦しみ悩む人を助けずにおれなくなるのが阿弥陀仏の救いと理解し、その素晴らしさを強く感じました。
親鸞聖人はその偉大な弥陀の救い、往相と還相の二種の廻向を明らかにされたから「世界の光」といわれるのだとお聞きし、疑問は氷解しました。
助けていただいたのだから、喜ぶ心、お礼を言う心はあるだろうという世間の常識を超越し、逆立ちしている我々からは矛盾と思える親鸞聖人のお言葉を、鮮やかに説き切ってくださる高森顕徹先生にお会いできた喜びを感ぜずにおれません。
「一念」に仏教のすべてがおさまっている
千葉県 水野絵美
一念で、往相と還相を同時に阿弥陀仏から賜ると聞かせていただきました。廻向を首としたまう(※5を参照ください)弥陀だからこそ救われる。この一念に、仏教の全てがおさまっていると強く知らされました。
自分の心を見てみると、育児だけとっても、「心から大切にしよう」「子供のことだけ考えよう」と取り組んでも、思いどおりの結果にならないと「こんなにしてやったのに……」と怒りさえ出てきます。与えることだけを考えるのは難しく、見返りを期待していた心に苦しみます。
「還相」とは、阿弥陀仏に救われた人が浄土から還られて衆生済度にご活躍なされることと思ってはいましたが、その御心は「恩徳讃」一つであることが知らされました。
この世で未来永遠の幸福に救い摂られた親鸞聖人が、今生で返し切れないご恩に報いるために「死んで極楽へ往っても、すぐに戻って来る」と、ご臨末のお言葉で仰っているのだとお聞きし、いかに広大無辺な救いであるか、感動せずにおれませんでした。
■※5
如来の作願をたずぬれば
苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて
大悲心をば成就せり
(正像末和讃)
(意訳)阿弥陀仏はなぜ、本願を建てられ名号(南無阿弥陀仏)を創られたのか。それは阿弥陀仏の大慈悲心が、苦しみ悩む我々を見捨てることができず、大功徳を与えて助けるより道なしと、十方衆生(すべての人)を見抜かれて創られたのが、南無阿弥陀仏の名号なのである。
親鸞聖人とともにある誇り
愛知県 山本信夫
両親と一緒に3日間、参詣いたしました。親鸞聖人が「御臨末の御書」で仰っているとおり、750年の時空を超えて戻ってこられて、私たち三人の背中を押し、手を引っ張って二千畳へ連れていってくださったのだと思いました。
親鸞会館に到着した時も、同朋の里へ徒歩で移動中も、展示パネルを見ている時も、会食でも、無論、ご説法中も、帰りのバスの中でも、「三人居て喜ばは四人と思うべし。その一人は親鸞なり」の御声が私の胸に響いていました。
「今、親鸞聖人は私とともにおられる」という喜びと誇りを胸に、親鸞学徒として、輝く本道をまっしぐらに進ませていただきます。
会食で仏法讃嘆
親鸞聖人750回忌フィナーレビデオ
3日目の最後は、フィナーレとしてビデオが上映されました。ビデオの一部をご紹介しましょう。
「なぜ生きる」
最も大事なことが分からず、年間3万人を超える自殺や、
エスカレートする暴力、虐待など、人類は混迷の度を深めています。
今日ほど、生きる目的を明らかになされた親鸞聖人のみ教えが、待望される秋はないでしょう。
親鸞聖人の正しいみ教えを学び、信じ、伝える人を、親鸞学徒といいます。
この親鸞学徒の使命を忠実に、ひたすら実践なされた方が、
600年前にお生まれになられた、蓮如上人でした。
まさに蓮如上人は、私たち親鸞学徒の鑑であります。
蓮如上人は常に、親鸞聖人のみ教えばかりを、懇切丁寧にお伝えくださいました。
だからこそ、日本中に、浄土真宗が着実に、深く浸透していったのであります。
蓮如上人が、本願寺8代目に就かれたのは、43歳の時でありました。
当時の本願寺本堂は、わずか三間四方(18畳)であったといわれます。
そこから蓮如上人は、どのように親鸞聖人のみ教えを全国津々浦々に徹底なされたのでしょうか。
その(1)
御本尊
蓮如上人は、まず正しい御本尊を明らかにされました。
蓮如上人は、親鸞聖人が生涯なされたとおり、「南無阿弥陀仏」の御名号を御本尊とされ、私たちにも御名号を本尊とせよと、教え勧められました。
「他流には
『名号よりは絵像、絵像よりは木像』
というなり。
当流には
『木像よりは絵像、絵像よりは名号』
というなり」 (蓮如上人)
このように、親鸞聖人の浄土真宗の正しい御本尊は、名号であると、ハッキリ教えられています。
その(2)
『御文章』
次に、親鸞聖人の教えを、正確に、多くの人に伝えるには、どうすればよいかと考えられてつくられたのが、有名な『御文章』です。
『御文章』とは、蓮如上人がご門徒衆に出されたお手紙です。平仮名交じりで分かりやすく、親鸞聖人のみ教えが書かれています。その中には、「この蓮如は」という私事は、全く見当たりません。
『御文章』を拝読するままで、門徒の人々は、親鸞聖人のご説法を、直に聴聞するような感激を、味わったことでしょう。
この『御文章』は、人から人へ、競って書き写されました。1通の『御文章』が、数十、数百、数千のお文となり、山を越え、谷を渡って、燎原の火の如く、全国へ拡大していきました。それは、数百、数千の蓮如上人が、各地で同時にご布教なされた、まさに布教革命であったのです。
その(3)
吉崎御坊と山科本願寺
さらに、蓮如上人57歳の時、福井県の吉崎に、布教拠点として、聞法道場を建立なされました。それが吉崎御坊です。
陸路、水路ともに交通至便で、聞法道場としては理想的な場所でした。
吉崎御坊が建立されると、次第に多くの門徒や商人が、吉崎へ移住して家を構えるようになり、わずか2年余りの間に、200軒近い多屋や民家が軒を並べるようになりました。
そこで全国各地から参詣した親鸞学徒が、長期間泊まりがけで聞法したのです。
また、蓮如上人は、
「かたく会合の座中に於て、信心の沙汰をすべきものなり。これ真実の往生極楽を遂ぐべき謂なるが故なり」
と、それらの人に大いに信心の沙汰を勧められ、人々は大いに仏法讃嘆し、信仰を深めていきました。
京都に山科本願寺が完成したのは、蓮如上人66歳の御時でした。
山科本願寺は、「寺の中は広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし」と言われ、京都や奈良にも例を見ない、極楽浄土のような、素晴らしい法城であったと、当時の人は驚嘆しています。
広さは、南北1キロ、東西800メートル、24万坪あったといわれます。
本堂を中心に、お弟子や門徒の住居、参詣者の宿泊施設が立ち並んでいました。
ここでも蓮如上人は、
「会合の時は、相互に信心の沙汰あらば、これすなわち真宗繁昌の根元なり」
(蓮如上人)
真剣に聞法し、語り合うことが、真宗繁昌の根元であるとまで、仰っておられます。
山科本願寺は、親鸞学徒の生活即聞法の場であり、当時の聞法ドメインだったのです。
この山科本願寺を拠点に、木辺派、三門徒派、高田派など、真宗各派が、蓮如上人の元に統一されていきました。
しかし、聞法ドメイン建設の目的は、あくまでも、私たち一人一人が、阿弥陀仏の本願を聞きひらき、人生の目的を果たす、信心決定以外にはありません。
「あわれあわれ、存命の中に
皆々信心決定あれかしと
朝夕思いはんべり、
まことに宿善まかせとはいいながら、
述懐のこころ暫くも止むことなし」
(蓮如上人)
これが蓮如上人のご遺言です。
蓮如上人のこの願いは、親鸞聖人と全く変わりません。
親鸞聖人、蓮如上人の御心は、「皆々信心決定あれかし」ただ一つであったのです。
(親鸞聖人750回忌フィナーレビデオ・シナリオより)
親鸞聖人のお言葉には、限りなく、深く、重く、強いお力があります。
無上仏の直説だからです。
親鸞聖人のお言葉を明示して、その正しい意味を、丁寧に、分かるように伝えていくことが親鸞会が存在するただ一つの目的です。
親鸞会では、全国各地で親鸞聖人の教えが学べる法話や勉強会を開催しています。
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