抜き難し、南無六字の城
濃蹶・峡顛いずれか抗衝せん
梵王ひとり降旌を樹てず
豈図らんや右府千軍の力
抜き難し南無六字の城
この漢詩の作者・頼山陽(1832年没)は、歴史書『日本外史』を編んだ、当時の日本最高の知識人。この詩で彼は、仏敵信長から石山本願寺を護り抜いた、親鸞学徒の信仰の力に驚嘆しているのである。
詩文中、「濃蹶」とあるのは、美濃(岐阜県)を制した戦国武将の斎藤道三、「峡顛」は、甲斐(山梨県)の武将・武田勝頼のこと。
「いずれか抗衝せん」とは、だれも抵抗できなかったとの意である。
天下布武の旗の下、朝に一城、夕べに一国と破竹の勢いで領土を広げる織田信長に、正面きってあらがえる者は、戦国大名の中にさえ、だれ一人なかったのだ。
そんな中、「梵王ひとり降旌を樹てず」。11代目法主・顕如上人だけが、信長からの石山立ち退きの命令を蹴り、断固、白旗を揚げなかったのである。
蓮如上人以来、血と涙で護ってきた法城を、仏敵に渡すことはできない。
信長は「たかが坊主と農民風情」と高をくくっていた本願寺の、思わぬ抵抗に逆上した。
元亀元年、大兵を起こし、一気呵成に石山攻略へ打って出る。
しかし、真実信に燃え、護法の鬼と化した親鸞学徒の法城は、いかに「右府(信長)」の千軍万馬といえども落とせなかった。
その後10年間、信長勢の攻撃は何度となく繰り返されたが、浄土真宗の先達はことごとく撃退し、法城の安泰は保たれた。
毛利などの支援があったとはいえ、ただの民兵が、10年もの長きにわたって、最強軍団の猛攻をしのいだのである。
だれも予想だにせぬこの奮闘は、儒学者の頼山陽をして、「抜き難し 南無六字の城」と驚愕せしめた。
それが今日、石山戦争と呼ばれる歴史に名高い護法の戦いである。