自殺を止められた釈尊の譬え話
絵で見て語る仏法

朝の情報番組「みのもんたの朝ズバッ!」(TBS系)で、いじめ自殺を取り上げ情報を募集したところ、7630通もの反響が寄せられたそうです。
驚いたテレビ局は、それらの投書を1冊の本にまとめ、緊急出版しました。
そこには子供たちを取り巻くいじめの悲惨な状況、また、それを何とかしようとする番組製作者たちの切実な気持ちと困惑がにじんでいます。
「死なないでと、呼びかけても、単なる偽善にしか映らないのではないか」
「そもそも、いじめ報道そのものが、自殺を誘発するのではないか」
「学校・教育委員会の責任を指摘するのは短絡すぎるのではないか」
番組製作会議はいつも議論百出だったらしく、「正直なところ、それぞれに明確な答えは、いまだに見つかっていません」と、担当者は語っていました。
人間は、なかなか死ねるものではありません。それなのに、自殺するのは余程の苦悩があってのことでしょう。
そんな苦しみを軽減していく努力が大切なのは言うまでもありません。
しかし、仏教では
"どんなに苦しくとも、なぜ生きねばならぬのか"
"死んだらどうなるのか"
に暗い心こそが、自ら死を選ぶ本当の理由であると教えられています。
自殺を抑止しようとする識者たちの中で、この肝心な点に触れる人は、皆無と言っていいくらいでしょう。
口をそろえて、
〝生きていれば、きっといいことがある〟
〝死ねば悲しむ人がある〟
と答えています。
しかし、生きていてもいいことがあると思えず、死を決意した人にとって、これでどれほどの抑止になるでしょうか。
死んではいけない本当の理由は何なのか。
だれも断言できないのは、断言できる真の人生の目的を知らないから、に違いありません。
「そなたには分からないだろうが」
仏教では、自殺についてどう教えられるか。
次のような話が残っています。
釈尊が、托鉢の道中でのことである。大きな橋の上で、辺りをはばかりながら一人の娘がたもとへ石を入れている。
自殺の準備に違いない。
娘のそばまで行かれた釈尊は、優しくその訳を尋ねられた。相手がお釈迦さまと分かった娘は、心を開いて苦しみのすべてを打ち明けた。
「お恥ずかしいことですが、私はある人を愛しましたが、捨てられてしまいました。世間の目は冷たく、やがて生まれてくるおなかの子供の将来などを考えますと、いっそ死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます。
こんな私を哀れに思われましたら、どうかこのまま死なせてくださいませ」
と、よよと泣き崩れた。
釈尊は哀れに思われ、こう諭された。
「不憫なそなたには、例えをもって話そう。
ある所に、毎日、荷物を満載した車を、朝から晩まで引かねばならぬ牛がいた。つくづくその牛は思ったのだ。
『なぜオレは、毎日こんなに苦しまねばならぬのか、一体自分を苦しめているものは何なのか』。
そして、
『そうだ。オレを苦しめているのは間違いなくこの車だ。この車さえなければ、オレは苦しまなくてもよいのだ。この車を壊そう』。
牛はそう決意した。
ある日、猛然と走って大きな石に車を打ち当て、木っ端微塵に壊してしまったのだ。
それを知った飼い主は驚いた。
こんな乱暴な牛には、余程頑丈な車でなければ、また壊される。
やがて飼い主は、鋼鉄製の車を造ってきた。それは今までの車の何十倍の重さであった。

その車に満載した重荷を、今までのように毎日引かせられ、以前の何百倍も苦しむようになった牛は、今更壊すこともできず、深く後悔したが、後の祭りであった。
牛は、自分を苦しめているのは車だと考え、この車さえ壊せば、自分は苦しまなくてもよいのだと思った。
それと同じように、そなたはこの肉体さえ壊せば、苦しみから解放され、楽になれると思っているのだろう。
そなたには分からないだろうが、死ねばもっと恐ろしい苦しみの世界へ入っていかねばならないのだよ。その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも、大きくて深い苦しみである。そなたは、その一大事の後生を知らないのだ」
そして釈尊は、すべての人に、後生の一大事のあることを、諄々と教えられた。

娘は、自分の愚かな考えを深く後悔し、釈尊の教えを真剣に聞くようになり、幸せな生涯を生き抜いたという。
〝あなたは自殺を、なぜ止める〟
〝あなたは自信を持って、自殺を止められますか〟
仏教にはその答えが教えられています。