南無六字の城
信長に徹底抗戦した護法の力は、こうして生み出された

濃蹶・峡顛いずれか抗衝せん
梵王ひとり降旌を樹てず
豈図らんや右府千軍の力
抜き難し南無六字の城
 (頼山陽)

 美濃を制した斎藤道三(濃蹶:のうけつ)も、甲斐の武田勝頼(峡顛:きょうてん)も、あらがう術のなかった織田信長(右府)に、本願寺の顕如上人(梵王)だけが、屈しなかった。
 だれが予想したか、あの信長千軍の力でも攻め落とせなかったとは。
 驚くべき南無六字の法城、石山本願寺。

 信長といえば、残虐非道な謀略家、自分の意に従わぬ者は徹底的にたたきのめすことで悪名高い。事実、彼に反抗した大名はことごとく滅ぼされている。

 その信長が11年かけても落とせなかったのが、南無六字の城・大坂の石山本願寺であった。護り抜いたのは、農民や町民で構成された諸国の真宗門徒である。

 蓮如上人がご逝去なされてから70年後も、法灯は連綿として受け継がれ、決死報恩に立ち上がる親鸞学徒が全国津々浦々にあふれていたのである。

 現今の浄土真宗教団には見られぬこのエネルギーを生み出した歴史を追ってみよう。

蓮如上人80歳過ぎのご決断

 石山戦争の舞台となる石山本願寺は、蓮如上人83歳の御時、完成なされたものである。

「抑、当国摂州・東成郡・生玉の庄内・大坂という在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや」 (御文章4帖目15通)

 ご布教の合間に、石山の地を検分なされた蓮如上人は、3つの川の合流地にある丘陵を、格好の聞法ドメインと思われ、すぐに建設工事に取りかかられた。

 当時、京都には山科本願寺があり、「荘厳仏国の如し」と大変なにぎわいを見せていた。しかし、蓮如上人は浄土真宗の未来を見据え、新たなドメインをあえて建立なされたのだ。

 果たしてと言うべきか、石山建立から35年後の天文元年(1532)、真宗の繁盛をねたむ勢力のため、山科本願寺は焼き打ちにあい、完全に焼失してしまう。
 この時、本山が石山御坊に移された。こうして石山御坊は、蓮如上人ご隠居の地から、浄土真宗の新たな本拠地となった。

 以後、石山は一層発展していく。6つの町で構成されていた寺内が、法を求めて移住する門徒により、10の町に拡大。永禄7年(1564)には、2千余の家屋が軒を並べていたといわれる。
 吉崎や山科でもそうだったように、居住者は、聞法、朝晩の勤行、信心の沙汰など、親鸞学徒として規律ある生活を送っていた。

石山本願寺予想図
石山本願寺(想像図)

 山科の二の舞いを踏まぬよう、加賀の国(石川県)から築城者を招集し、近国の門徒有志を募って、堅固な石垣を築き、文字どおり法城とした。
 寺内の警護に当たったのも、諸国参集の門徒だった。彼らは番衆と呼ばれ、番屋に詰めて寺内を護り、夜間は施錠で交通を制限し、城内の安全を期した。
 番衆を出せない遠国の門徒は、番役銭といってお金で代納していた。
 いったん緩急あれば、番衆は平時の数倍から数十倍にも達したといわれる。

 浄土真宗が隆盛を誇り、本願寺が大きな力を持ちえたのは、ご門徒の聞法熱とご報謝による。これ皆、蓮如上人のご教化によるものである。
 3頭の駿馬による各地での精力的なご布教と、『御文章』という画期的なメディアによって、多くの人々に速やかに法を伝えられた。
「苦しい人生、なぜ生きる」という疑問は、いつの世も同じ。私たちを無上の幸せに助け切るのは、本師本仏の阿弥陀仏のみであり、人界受生の目的は、平生の一念に弥陀の救いにあうことだ。
「必ず救う」弥陀の大慈悲は、干天の慈雨のごとく人心を潤し、教線は拡大の一途をたどった。人々が、『御文章』を携さえて各地に伝えたからである。

 さらに、上人が特に勧められたのが、信心の沙汰である。

「せめて念仏修行の人数ばかり道場に集りて、わが信心は・ひとの信心は如何あるらんという信心沙汰をすべき用の会合なるを、近頃はその信心ということはかつて是非の沙汰に及ばざるあいだ言語道断あさましき次第なり。所詮、自今已後はかたく会合の座中に於て信心の沙汰をすべきものなり」(御文章1帖目12通)

「物を言え物を言え。物をいわぬ者は恐ろしき。信・不信ともに、ただ物を言え。物を申せば心底も聞こえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せ」 (御一代記聞書)

 このお勧めに従い、ある者は自宅の一部を改装して道場を設け、また別の村では公共の道場を造って、講(会合)を開いた。

 講には、「二十八日講」「尼講」など、幾つもの種類があり、特に秋から冬の農閑期には頻々と行われ、正しい信心が門徒一人一人に徹底された。
 日ごろの身分の上下も講においては関係なく、人類共通唯一の目的に向かって進む「御同朋御同行」の固い団結が生まれた。
 それまで領主との主従関係にのみ生きていた農民が、深い部分で横につながったのである。

 農村の変化はこれだけではない。
 人生の目的がハッキリすることで、農民に活力がわき、おのずと勤勉になっていった。
 この勤勉さと団結が、農業技術の進歩と相まって、米の生産高を飛躍的に向上させた。荒れ地を開拓し、新田を開発し、仏法中心の生活が営まれる村が、次々と生まれた。

 町民も、仏法の自利利他の精神を商工業で実践したため、やはり、大いに繁栄した。

 こうして、彼らは、信仰を深めると同時に、社会的地位も大いに向上した。
 真宗門徒の連帯は一村内にとどまらず、やがて惣荘、惣郷などの境を超えて、大名も無視できない一大勢力になっていった。

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