浄土真宗は なぜ衰退したのか
阿弥陀仏の第十九願(修諸功徳の願)には、
「諸の功徳を修するよう努力精進しなさい。必ず救う」
と弥陀は諸善を勧めていられる。
この弥陀の十九の願意を、親鸞聖人は『浄土和讃』に、こう教えられている。
「臨終現前の願(十九願)により
釈迦は諸善をことごとく
観経一部にあらわして
定散諸機をすすめけり」
「諸善万行ことごとく
至心発願せるゆえに
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり」
ここで親鸞聖人が、「善とならぬはなかりけり」と仰っているのは、善が往生浄土の間に合うとか役に立つということでは、決してない。
大人になれば間に合わぬ物でも、子供の時には必要なものがいくらでもあるだろう。
顔に億差兆別の違いがあるように、人間の心はもっと複雑多岐に亘っている。
強い自惚れ心に騙されて微塵劫より流転してきた我々に、〝金輪際、助かる縁なき者”と知らせることは、まさに難中之難無過斯なのだ。
十八願真実からは我々の諸善万行は棄て物だが、真実を素直に受持する者は十方衆生に一人もいないと、弥陀が五劫思惟で見抜かれて真実十八願へ導入するために建立されたのが、十九、二十の弥陀の本願なのだと、親鸞聖人は教えられている。
かかる深遠な仏意をツユ知らず“十九願は諸善を棄てさすために説かれたもの”、故に善に向かう必要ないという人が、浄土真宗の道俗に如何に多いことか。
己の分際も心得ず、弥陀が実行させるために建てられた本願を反古にしているのを知らないのだ。
日常生活で実行するままが、いかに三毒五欲に狂わされている浅ましい自己であるかに驚き、弥陀の名号(南無阿弥陀仏)でなければ金輪際、助からぬ我が身と自覚させられ、植諸徳本の願(二十願)に廻入し遂には選択の願海に転入させらるるのである。
実践しなければ果報は来ない。知った分かったの合点だけでは信仰は進まない。結果は実行してこそ自然の徳として現れるのである。
往生浄土の一段は、仏智不思議で越すに越されず越されずに越す、聞信の一念で足り過ぎるが、日常生活の一段は善因を蒔かなければ善果は来ないし、やりたい放題の悪因はこの世の地獄を現出するのみ。
現今の浄土真宗の人達は、善に向かう必要はない念仏さえ称えていれば良いのだと言っているのは、全く弥陀の本願を知らず“悪人正機”と“雑行”の聞き誤りに外ならない。
仏縁のない人でさえ悪を慎み善に励んでいるのだ。
ましてや幸いに有り難い仏縁に恵まれながら、全力で身の行いを慎み光に向かわねば、従苦入苦、従冥入冥、この世から闇黒の地獄となって当然だろう。
因果の道理は仏といえども曲げられないのだから。
仏語解説
三願とは、阿弥陀仏の建てられた四十八願の中で「あらゆる人を救い摂る」と約束された、十八、十九、二十の願をさす。
「どんな人をも、必ず絶対の幸福に救う」十八願真実(目的)へ導く方便(手段)として阿弥陀仏が誓われたのが、十九・二十願である。
選択の願海(十八願)へ出るには、だれもが十九・二十願の道程を通らなければならないことを発見し、教導されたのが親鸞聖人である。