親鸞聖人が明らかにされた完成・卒業のある信心 (1/4)
信心ただ一つ明らかにされた親鸞聖人
親鸞聖人が90年のご生涯、命を懸けて教えられたことは、ただ信心一つであった。
これを蓮如上人は、有名な「聖人一流の章」の冒頭に、
「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候」
と喝破されている。
世間でいう信心は、自分の心で何かを信じることである。だから、信心が要るのは弱い人間だけで、強い者には必要ないと思っている人もあるが、とんでもない誤解だ。
神や仏を信じるだけが信心ではない。「信じる」とは、言い換えれば「たよりにする」「あて力にする」ということだから、金、地位、名誉や財産があるから大丈夫だと思ったり、健康や家族をたよりにしているのも、心でそれらを信じている信心である。お金の貸借や約束も、相手を信じてのことだから、誰もが何かを信じなければ一日たりとも生きてはいけないのだ。
だが、そうした信心には、完成もなければ卒業もない。どれだけ深く信じても、これで決勝点、ということはありえない。ゴールなき円形トラックを走り続けるように、死ぬまで求め続けるしかない信心である。
世間の信心と どう違う?
ところが親鸞聖人が教えられた信心は、「信心決定(しんじんけつじょう)」「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」と言われるように、「決定」「獲得」決勝点がある信心であり、完成した、卒業した、ということのある信心である。
また、世間でいう信心は、疑いがあるから信じているのであって、疑う余地のないことならば、信じることも不要になる。
だが、親鸞聖人は、「真(まこと)に知んぬ」「今こそ明かに知られたり」とハッキリしたこと、「仏願に疑心有ること無し」とツユチリの疑いもなくなったことを、信心と仰っているのである。