親鸞聖人が明らかにされた完成・卒業のある信心 (2/4)
人間の心に非ず 信心は全く仏心
常識では想像すらできない、親鸞聖人が教え勧められた信心を、蓮如上人はこう教示されている。
「信心という二字をば、まことの心と読めるなり、まことの心と読む上は、凡夫自力の迷心に非ず。全く仏心なり」
(「信心」の二字は、まことの心と読む。まことの心とは、人間の自力の迷心ではない。全く仏さまの御心なのである)
「凡夫のまことは、まことのないのがまこと」と言われるように、我々凡夫(人間)は、まことがないのが実態である。
「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あること無し」(歎異抄)
と、親鸞聖人は仰る。
「煩悩具足の凡夫」とは、ちょうど雪だるまが雪のかたまりであるように、我々凡夫は、欲や怒り、ねたみ・そねみの愚痴など百八の煩悩のかたまり、ということだ。煩悩以外に何もないのが人間である。
そんな人間の心は、例外なく、そらごと・たわごとばかりで、「まことの心」は微塵もないと、
「浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし」(悲歎述懐和讃)
「まことの心の全くない親鸞だ」と自らも告白されている。
人間に「まことの心」がないのなら、親鸞聖人が説かれる「まことの心」と読む「信心」は、人間の心であるはずがない。では一体誰の心なのか。「全く仏心なり」と明かされている。
南無阿弥陀仏は大宇宙の宝なり
仏心とは、阿弥陀仏の御心であり、それは「南無阿弥陀仏」の御名号のことである。
この「南無阿弥陀仏」を、蓮如上人は、次のように教えられている。
「『南無阿弥陀仏』と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」
(御文章五帖目十三通)
南無阿弥陀仏はたったの6字だから、そんなに功徳があるとは思えないだろうが、それは猫に小判、ブタに真珠で、我々に、南無阿弥陀仏の大功徳を知る智恵がないからだ。この六字の名号の中には、大宇宙の功徳(宝)が収まっているのだよ、と仰っている。
お釈迦さまは、80歳で亡くなられるまで、この南無阿弥陀仏の大功徳一つを説かれたのである。釈迦の一切経は、南無阿弥陀仏の六字の解説書であり、効能書きと言っていい。それでも六字名号の大功徳を説き尽くすことはできなかったと、お釈迦さまは仰っている。