「往生の一路」を残した 法霖 自決の真相 (3/6)
本山は空前の繁盛を遂げるも
公家との関係が暗雲もたらす
本山常勤者も、石山本願寺時代の63人から、300人弱の大所帯へと飛躍している。
寺内町もますます発展し、正徳年間(1711年ごろ)には61町、約1万人が住んでいた。
町内には、七日講、清浄講、尼講、大谷講、山科講などがあり、日ごろから信心の沙汰が熱心に行われ、住民間の結束も強かった。
一方、本願寺の社会的地位が高まるにつれて公家との結びつきが強まっていた。
第14世法主の寂如は、公家から妻を迎えたうえに、公家の子息を養子にし、跡取りに据えた。それが15世の住如(じゅうにょ)である。
血脈のない後継者が元で“お家騒動”が起こり、見かねた幕府が関係者を閉門や流罪に処した。これは、さらなる大事件の前兆でもあった。
要職にあった者が教えを曲げ
病気治しの祈祷に走る
そんな内紛の余燼くすぶる中、寂如(じゃくにょ)の子・湛如(たんにょ)が16世法主に就任した。法霖が能化になって3年目である。(元文4年、法霖47歳)
湛如は生来病弱で、就任間もない寛保元年(1741)正月ころより、肺結核で床に伏した。
元気なころは、宮中にも布教に出入りしていたため、宮中の女官とも面識があった。法主の病気を案じた彼女たちが、各地の神社、仏閣で病気平癒の祈祷を始めた。
湛如が法主になってから迎えた妻は、東山天皇の孫だった。夫の病気を心配するあまり、やはり因習に引かれて、病気は鬼神のたたりや、方角が悪いせいだとして、実家のほうで盛んに病気平癒の祈祷をした。
因果の道理からすれば、病気治しの祈祷などは、無意味で馬鹿げた行為である。まして鬼神というのは、死んだ人間や畜生の霊のこと。それらが私たちに禍福を与えるというのは迷信であると、真実の仏教は断言する。