一切経は「浄土の方便の善なり」
要ず通らねばならぬ門
阿弥陀仏の本願一つ説くことを出世の本懐とされた釈迦が、なぜ廃悪修善をかくも勧められるのか。
この修善の勧めが、阿弥陀仏の救いと無関係であるはずがない。
親鸞聖人はズバリ、
「みなこれ浄土の方便の善なり」
「これみな浄土方便の要門なり」
と断定されている。
すべては阿弥陀仏の本願(十八願)に相応させ、浄土往生を果たさせるためのご方便であったのだ。
それは、釈迦の独断ではない。阿弥陀如来が、十方衆生を真実の十八願の救済に導かんがために、方便の十九願で「修諸功徳」と勧められているからである。(※5)
※5:参照・・・親鸞会ホームページ浄土真宗講座「三願転入とはどんなことか」
釈迦の『観無量寿経』は、本師・弥陀の十九の願意(※6)の開説だったのだ。
※6:参照・・・親鸞会ホームページ現代の仏説「弥陀の19の願意」
「要門」とは、要(かなめ)の門、重要な門、必要な門であり、真実の十八願に入るには、要ず通らねばならぬ門(教え)、ということである。
この門から、目的の奥座敷(十八願・真実功徳大宝海)に入りなさい、と教えるから仮門ともいう。仮より真へ。十方衆生の何人も、方便からしか真実へは入れないのである。
これを親鸞聖人は、ご和讃に、こうも教導されている。
「至心発願欲生と(十九願)
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける」
「臨終現前の願(十九願)により
釈迦は諸善をことごとく
観経一部にあらわして
定散諸機をすすめけり」
「諸善万行ことごとく
至心発願せるゆえに
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり」
釈迦一代の仏教は、まさに「唯説弥陀本願海」(※7)。私たちを、選択(せんじゃく)の願海(十八願)に転入させ、浄土往生の本懐を遂げさせるためであったのだと、親鸞聖人は明らかにされているのである。
※7:唯説弥陀本願海・・・親鸞聖人の『正信偈』のお言葉。お釈迦さまが地球上に現れ、仏教を説かれた目的は、「唯、阿弥陀仏の本願一つを説かれるためであった」との親鸞聖人の断言である。