二つの後生の一大事
仏教は、後生の一大事に始まり、後生の一大事に終わるといわれるが、この「後生の一大事」が、弥陀の救いの前と後とで大きく分かれるのだ。
弥陀に救われた人の「後生の一大事」を、蓮如上人はこう教えられている。
「信心決定して、その信心の趣を弟子にも教えて、諸共に今度の一大事の往生を、よくよく遂ぐべきものなり」(御文章)
“平生に弥陀の救いに値って、皆にもその不可思議の救いの素晴らしさを伝えて、ともに弥陀の極楽浄土へ往き、仏に生まれる一大事を遂げねばならない”
極悪人の私が、死ねば弥陀の浄土(無量光明土)に往って、無上のさとりである仏に生まれるというのだから、まさに大事である。
一方、弥陀に救われる前の一大事は、次のように説かれる。
「後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」(御文章)
“後生の一大事とは、未来永く地獄に堕ちて苦しむことだから、急いでこの一大事の解決を心にかけて、阿弥陀仏の救いを求めねばならない”
この「地獄に堕ちて永い苦患に沈む」一大事が、信心決定の一念で、「弥陀の浄土に往って仏に生まれる」一大事に切り替わる。回れ右で、180度、大転換するのだ。
蓮如上人はそれを、「今度の一大事の往生」と言われている。