仏教を聞く目的は、何か
"仏教聞いている人は、欲も減って淡泊になり、腹も立てず穏やかになるのだろう"。
これが常識になっている。
だから、それに反する言動を見聞きすると「それでも仏法者か」「どこも変わらぬなら、仏法聞く意味がない」と皆思う。
このような誤解を、親鸞聖人はこう正されている。
「已に能く無明の闇を破すと雖も、
貪愛・瞋憎の雲霧、
常に、真実信心の天を覆えり」
「弥陀に救われても、欲や怒り、ねたみそねみの煩悩は、全く変わらない」といわれている。
私たちを構成している108の煩悩を雲や霧にたとえ、弥陀に救い摂られた世界(真実信心)を天にたとえての解説である。
弥陀の目的は、欲や怒りの煩悩を減らしたり無くすることではない。もしそうなら、弥陀に救われた人は、夜も眠らず食欲減退、ヒョロヒョロの草食系の人間になり、何もしないのに頭たたかれても腹も立たないということになる。おかしいとすぐ分かろう。
弥陀の救いは「無明の闇」を破ることである。
「無明の闇」とは、死後がハッキリしない「後生暗い心」をいう。この後生不安な心をぶち破り、「往生一定」の大安心に救い摂るのが弥陀の誓願であり、仏教の目的なのだ。
苦悩の根元は無明の闇一つ
聖人は9歳で仏門に入って20年、比叡山での日々は、まさに煩悩との格闘だった。
「あの湖水のように、なぜ心が静まらぬのか。あの月を見るように、なぜさとりの月が見れぬのか。思ってはならぬことが思えてくる。考えてはならぬことが浮かんでくる。恐ろしい心が噴き上がる。どうしてこんなに欲や怒りが逆巻くのか」
無常の風は時を選ばず。このままならば、釜の中の魚の如く、永久の苦患は免れぬ。忍びよる無常の嵐に火急を感じ、「こんな親鸞、救われる道があるのだろうか」と下山を決意。間もなく、法然上人に邂逅され、
「『凡夫』というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心、多くひまなくして、臨終の一念にいたるまで、止まらず消えず絶えず」 (一念多念証文)
「人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの、かたまりである。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。もちろん、断ち切れるものでは絶対にない」
苦悩の根元は無明の闇一つであると知らされ、「無明の闇を断ち切り、往生一定の身にする弥陀の誓願」に救い摂られたのである。
仏教を聞く目的は「無明の闇」を破ること一つであることを聞き誤ってはならない。