罪悪深重の我らが目当て
阿弥陀仏は、どんな人のために、このような本願を建てられたのだろうか。蓮如上人は、こう教えられている。
「夫れ、十悪五逆の罪人も(乃至)空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我ら如きの凡夫なり。
然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、(乃至)弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という超世の大願を発して」(御文章二帖八通)
“大宇宙の一切の仏方から「救い難き者」と見捨てられたのが我々である。そんな者を阿弥陀如来という諸仏の本師本仏が、ただお一人「私が助けよう」と立ち上がられ、崇高な願いをかかげられた”
すべての仏から見放された我々がお目当ての弥陀の本願であることを、親鸞聖人は『歎異抄』に、
「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします」
“煩悩の激しい最も罪の重い極悪人を助けるために建てられたのが、阿弥陀仏の本願である”
と感泣なされている。
では、どうすれば、この弥陀の救いに値えるのか。
蓮如上人は、
「もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば」
と仰せである。
ここで、「雑行をなげすてよ」とは、「自力の心を捨てよ」ということである。自力の心とは、本願疑惑心、弥陀の本願に対する疑いをいう。