八万四千の法門は すべて弥陀(本師)の19の願意
釈迦(弟子)の独断にあらず|親鸞会 顕正新聞(2/2)
凡そ八万四千の法門(釈迦一代の教え)は
みなこれ浄土(弥陀)の方便の善なり。
(親鸞聖人『一念多念証文』)
弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なり。
(蓮如上人『御文章』2帖目8通)
"通過点"を"終点"と誤解
石川県 女性
「凡そ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり」
のお言葉の深い意味に、大変驚きました。
「聖道門」を、お釈迦さまの教えの一部くらいに思っていたのは大変な誤りだったと、今回ハッキリしました。
捨家棄欲して自力でさとりを得ようとする「聖道門」は、仏教の"通過点"を"終点"と誤った人たちの教えであり、お釈迦さまの真意ではありません。
釈迦の一切経は、すべて、本師・阿弥陀仏の19願の御心を開いて教えられたものと知らされました。
それは弥陀の本心、18願に導かんがためであったのだと。
弟子の使命は師匠の御心を伝える以外にあってはならないと、いつもお聞きしていることが胸に響いてきます。
聞かせていただくほどに奥深く、名号(南無阿弥陀仏)の素晴らしさを生涯懸けても説き尽くせなかったと言われたお釈迦さまのお言葉を思わずにおれません。
真実(18願)に導くためのご方便(19、20願)
東京都 男性
仏教に、「聖道門」「浄土門」の二つがあるのか?の疑問にお答えくださり、ありがとうございました。
釈迦の教えといっても、弥陀の本願以外にはなく、弥陀の19の願意を開いて見せてくだされた釈迦の仕事が一切経、仏教であると知らされました。
18願で一念で救い摂ってくださるのは弥陀のお仕事で、そこまで導くのが釈迦の力であるかのように思ってしまいますが、決してそうではなく、救われるまでの道程も、全く弥陀の独り働き(19願、20願)であり、釈迦の力の入る余地はないと教えていただきました。
仏教に二つあると、皆が聞き間違えてしまう、難しいところを、「八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり」と、もう間違いのないように明らかにしてくだされた親鸞聖人。まさに世界の光と仰がずにおれません。
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