親鸞聖人が明らかにされた完成・卒業のある信心 (3/4)
垂名示形の六字
阿弥陀仏の御心は、色も形もないから、認識できない。それでは我々は毛頭知ることができないし、助からないから、我々に分かるように、見えるように、口で称えることができるようにと、弥陀が、五劫の思惟をされ、兆載永劫の大変なご修行の末に、南無阿弥陀仏という形に表してくだされたのが六字の名号なのである。これを垂名示形(*)という。
*垂名示形(すいみょうじぎょう)
「名を垂れて、形を示す」と読む。「名を垂れて」とは、「南無阿弥陀仏で」ということ。「形を示す」とは、我々の認識にのるようにされた、ということ。阿弥陀仏は、自らの大慈悲心(仏心)を我々に与えて絶対の幸福に救うために、『南無阿弥陀仏』の名号を作られた。ゆえに「六字の名号」は、弥陀の大慈悲心の顕現(現れ)であり、「垂名示形の南無阿弥陀仏」といわれる。
名号受け取ったのが他力信心
では阿弥陀仏が、名号を作られた目的は何か。ご自分のお手元において楽しまれるためではない。それは、苦しみ悩む我々に、与えて絶対の幸福に救うためだったのである。
この名号を、私たちが弥陀より一念で頂いて仏凡一体(ぶつぼんいったい)になったのを「信心」という。これこそ親鸞聖人が90年の生涯、教え続けられた「他力の信心」なのである。
「仏凡一体」とは仏心と凡心とが一体になったことで、欲や怒り、愚痴一杯の私たちの心(凡心)と、弥陀の大慈悲心(仏心)とが一つになったことである。
ちょうどそれは、黒く冷たい炭に、熱く明るい火がつけば、炭のままで真っ赤な火、火のままが炭となって、分けることができなくなるようなものである。
このように、南無阿弥陀仏の無上甚深の功徳利益と私が一体になったことが、信心の卒業であり、完成なのだ。これを、「信心獲得」「信心決定」とも、「仏智全領」「仏智満入」とも言われるのである。
阿弥陀仏は、この名号の大功徳を私たちに与えて助けようと全力を挙げておられる。二千畳に参詣する目的も、阿弥陀仏から南無阿弥陀仏の大功徳を頂くためなのだ。
まさにこの二千畳は、無上甚深の功徳利益の取引場なのである。
二千畳は、南無阿弥陀仏の大功徳を獲得するために建てられた法城なのだ。