親鸞聖人が明らかにされた完成・卒業のある信心 (4/4)
雑行をなげすてて弥陀に一心帰命
では、どうすれば信心獲得できるのか。親鸞聖人は、どう教えておられるか。
「聖人一流章」には、
「もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう」
と教示されている。
まず、「もろもろの雑行をなげすてて」とは、どういうことか。
「仏法は聴聞に極まる」
同じ「きく」でも、聴と聞とは、聞き方が違う。聴は、善知識から教えを聞くことだが、聞は、弥陀の呼び声を聞くのだ。聴なくして聞はない。
「雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」ということだが、自力の心とは、
「どうしたら信心獲得できるのか」
「どうしたら聞けるのか」
「どうしたら助かるのか」
という心。これは、「自分には、南無阿弥陀仏を受け取れるまことの心がある」という自惚れ心である。
親鸞聖人は、これを『正信偈』に、「邪見◎慢の悪衆生」と言われている。
この自力の心がある間は、南無阿弥陀仏を頂くことは絶対できないから、「雑行を捨てよ」と言われているのだ。
◎…りっしんべんに喬と書く漢字。「きょう」と読む。
一念で正定聚に 念仏はお礼
次の「一心に弥陀に帰命すれば」とは、阿弥陀仏に信順したこと。
善導大師は、二河白道の譬えで弥陀の呼び声を、「汝、一心正念にして直に来れ」と教えられている。
親鸞聖人はこれを、「弥陀の招喚の勅命」と仰る。弥陀の「そのまま来い」のご命令に順ったことを「一心に弥陀に帰命」と蓮如上人は言われているのである。
「不可思議の願力」とは、我々の想像を超えた不可称不可説不可思議の弥陀の願力のこと。
「仏の方より往生は治定せしめたまう」とは、阿弥陀仏の方から、南無阿弥陀仏の大功徳を下されて、往生一定とハッキリするのである。
「その位を『一念発起・入正定之聚』」とあるように、阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を賜るのは、だんだんではなく、極速の一念である。
その一念に、「正定聚に入る」とは、絶対の幸福になる、いつ死んでも浄土往生、仏に成ることに間違いなしの身になるということ。
「その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と、心得べきなり」
信心獲得してからの念仏は、いつ死んでも極楽参り間違いない身にしてくだされた、お礼の念仏だと教導されている。
これは決して、信心獲得するまで念仏称えてはならないとか、称えないほうがいい、ということではない。誤解してはならない。
このように、短い「聖人一流章」に、親鸞聖人のみ教えのすべてが収まっているのである。