「論より証拠」の落とし穴 教えで真相を見極める (2/3)
体験よりも教え
世の中のことでいえば、証拠の吟味をするのが裁判官である。かつて、警察の判断を裁判所が覆した例が愛媛県であった。
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数年前、漁師の遺体が海中で発見された。後頭部にあった打撲傷を県警は、船から転落する時にできた証拠とし、自殺と断定して捜査を打ち切った。
漁師の妻が疑問を抱き、裁判所に提訴。公判では、亡くなった翌日に男性が歯科の予約を入れていたことなどを論拠に自殺説を破り、裁判長は保険金の支払いを命じた。
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空事たわごとの世の中でも、論を尽くして証拠を吟味し、事実を追究する。
親鸞学徒にとって、「論」は教えであり、「証拠」は体験である。一口に体験といっても、智恵も学問も経験も各別だから、それらでつくる「救われた」という体験もまた各別である。だから千万の化城(自分でつくった、救われたつもりの体験)がある、とお釈迦さまはおっしゃっている。
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えにかなっているかどうか。どんな体験も教えに一致していなければ、何の価値もない。真実の教えが唯一の依憑(えひょう)、物差しなのである。
だから怪しい証拠(体験)は、「証拠より論」で真相を見極めなければならない。