「論より証拠」の落とし穴 教えで真相を見極める (3/3)
おぞましや 名聞利養に 体験談
浄土真宗にも、体験を売り物にする者たちがいる。
「泣いた」「笑った」「心が明るくなった」「念仏が噴き上がった」「風呂の中で躍った」などの体験談が信心決定の証拠として紙面を堂々と飾り、周りの者たちも「よかったよかった」「私たち一味やね」と喜ぶから、いよいよその気になって、これでもう大丈夫、と腰を落ち着ける。
その体験が、親鸞聖人の本当のみ教えと合致しているかどうかは、彼らにはどうでもいいのである。
彼らが話しできるのは、自分の体験談ばかりだ。
自分が苦労して求めて、その結果「ああなった」「こうなった」という自慢話になる。
苦労した 体験談が 自慢種
おぞましや 名聞利養に 体験談
名聞利養とは、広く名を知られたいという名誉欲と、身を養うための利益欲のことである。
「私が獲信した時はこうだった」「ああだった」「私はこのようにして信心決定した」という体験談は、結局はみえみえの自己宣伝のほかにはない。
善知識方は、「いつ」「どこで」「どの知識のもとで」「どのように」獲信したなど、各人各様、異なる体験談をどこにも残されてはいない。決して親鸞学徒の本道を踏み外してはなるまい。