警鐘・親鸞聖人の教えと異なることを語る者たちの特徴 (3/3)
各人各様の体験談で万人平等の信は表せない
全ては無上仏のお力
埼玉県 親鸞会会員 山本美優
三願転入のご文で親鸞聖人は、「弥陀の三願によって親鸞救われた、全く弥陀の本願力であった」と喜んでおられます。
「こんなに苦労して求めている」「今までの苦労は無駄だった」などの気持ちは、三願転入の道を、自分で進んでいるように誤解しているからだと思いました。
親鸞聖人は比叡山で20年も苦行されました。普通なら、「20年も無駄をさせられた、慈鎮和尚にだまされた!オレの20年を返せ!」と恨んで当然ですが、親鸞聖人は全く正反対で、「弥陀のご方便だった」と喜んでおられます。
全て無上仏のお力で進ませていただいていますから、恨みや愚痴、落ち込む心も間違っており、懺悔と感謝で進ませていただかなければと思いました。
無駄な苦労はない
富山県 親鸞会会員 菊地康子
親鸞聖人が、三願転入のご文に込められたメッセージは、すべての人は、阿弥陀仏の本願力で進ませていただくということです。
だから無碍の一道へ出させていただいた時、「あの方便がなければこの身になれなかった。正しい道を進んでいる限り、『何にもならん』ということは一つもない」とお聞きし、勇気づけられました。
無駄と思える苦しみが、逆に皆、生きてくる世界に向かっている。何と素晴らしい、想像を絶する世界なのかと思います。
次元の違う救い
富山県 親鸞会会員 水上佐知枝
他力の信心を獲たならば、過去の一切は、阿弥陀仏のご方便であったと喜べるとお聞きしました。
世間では、何人もの医者にかかってやっと病気が治った時、誤診した医者に対して、感謝や喜びなど出てきようがありません。弥陀の救いは本当に次元が違うのだと感じました。
『なぜ生きる』に、「人生の目的を達成したとき、一切の苦労は報われ、流した涙の一滴一滴が、真珠の玉となって戻ってくる」とあるのも、このことかと思いました。
弥陀のお言葉で表現
岩手県 親鸞会講師部 福田琢也
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人など、善知識方の書かれなかった体験記と、書かれている体験記との違いを教えていただきました。
邪教の出版物は体験記であふれ、テレビや週刊誌も、「こうしたら健康になった」「あの料理がおいしかった」と体験を語って、人を引き付けています。
それらに人が飛びつくのは、他人の成功体験を自分も真似てあやかろうとする心であり、有名人の不幸をのぞき見て憂さ晴らしをする愚痴の心からでしょう。
同様の心から、「弥陀に救われた」と言う人があれば、その人の体験を具体的に聞きたくなります。
しかし、各人各様の体験談は、各人各様の自力の信心は表せても、万人が一味平等になる他力信心を表すことはできません。他力の信心一つを伝えるために生き抜かれた善知識方が、個人的な体験をどこにも記されていないのは、当然と知らされました。
「聖人はどのように救われられたのですか?」という、私たちが最もお聞きしたい問いに、親鸞聖人は三願転入のご文でお答えくださっています。人を容易に引き付ける週刊誌とは対極の、何とも硬い仏語ばかりの文章です。
それは、ご自身の救われた体験を、弥陀のお言葉で表現されているからであり、十方衆生相手の弥陀の本願でしか、十方衆生に共通する道程は示せないから、と知らされました。
聞くべきではない話
滋賀県 親鸞会講師部 金田 梢
私たちにとって、分かりやすく、実感の持てる表現は、いつ、どこで、誰から、どうやって、という生々しく具体的なものですが、そんな体験記で表されたものは70億人いれば、70億とおり、一つとして同じになりません。そんな表現で、絶対他力一味の世界を、表すことも、導くこともできるはずがありません。個人的、具体的な体験談で「弥陀に救われた」と言っている時点で、そんな者たちの話は〝聞くべきではない〟ことは明らかです。
結局、ただの自慢ですね
富山県 親鸞会講師部 浄西 寿子
「いつ、どこで、誰のもとで、どのようにして弥陀に救われた」のような表し方では、他力信は伝えられません。
個別の体験では伝えられないのだから、書く意味も、話す意味もありません。なのに得々と体験を書き、話す者たちの目的は何かといえば、結局「自慢」「自己宣伝」の他ありません。
「体験談好む心」に要注意
愛知県 親鸞会講師部 宮沢 健
一人一人違う体験記を読み、同じになろうとしても同じ体験などできません。そんな体験記で、一味平等の他力信心に導かれるはずがないのです。
ですが私たちは個人的な体験談を好み、聞きたがり、そのほうが何か具体的にしっかりつかんだ気になり、安心しやすいので、体験談を語る者にはよくよく気をつけねばなりません。
「こうなった」の体験談は、みえみえの自己宣伝 親鸞学徒は本道のみを往く