「三願転入」は、すべての人の獲信までの道程 (2/4)
阿弥陀仏の三願は、無関係に孤立したものではない
三願はそれぞれ、無関係に独立したものか、それとも関連しているのか。
昭和59年に親鸞会から発行された『本願寺なぜ答えぬ』から、引用しよう。
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〝親鸞聖人の特徴は〟と問われて、なんと答えるだろう。
山上の仏教を、山下の仏教に、貴族の仏教を、庶民の仏教に、僧侶の仏教を、在家の仏教に、禁欲主義の仏教を、肉食妻帯の仏教にしたことか。
いずれも当たっている。が、しかし、なんといっても特徴の中の特徴は、真仮の区別をハッキリさせ、自力の臭味を断ち切って、他力不思議を発揮されたことが第一であろう。
親鸞聖人、畢生の大著、浄土真宗の根本聖典『教行信証』六巻をみれば、それは明白だ。
「教・行・信・証・真仏土」の五巻に真実(真)の仏教、後の「化土」巻に方便(仮)の仏教を開顕し、〝仮より真に入れよ〟が、親鸞聖人の生命になっている。
「然るに、願海に就きて、真あり仮あり─乃至─既に以て、真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり―乃至―真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」(真仏土巻)
「願海に、真あり仮あり」
まず、阿弥陀仏の本願に、真実(真)と方便(仮)のあることを判定し、十八願を真実、十九・二十の二願を、方便と断定される。
真実とは、本心のこと。
十八願には、弥陀の本心(どんな人をも、必ず絶対の幸福に救いとる)が誓われているから、真実といわれる。
方便は、方法便宜の省略で、目的を果たす、方法手段をいう。
「十九・二十の二願は、弥陀が目的(十八願)を果たす方法手段に誓われたもの。
従って、三願は、無関係に孤立したものではない」
これが、親鸞聖人の見解であり、宣言である。
二つ三つ、その文証をあげておこう。
中でも、鮮やかで有名なのは、聖人の告白である、三願転入のご文であろう。
「ここをもって愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく、万行諸善の仮門(十九願)を出でて、永く雙樹林下の往生を離れ、善本徳本の真門(二十願)に廻入して、偏に、難思往生の心を発しき。
然るに今、特に、方便の真門(二十願)を出でて、選択の願海(十八願)に転入し、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由あるかな。 ここに久しく願海(十八願)に入りて、深く仏恩を知れり。
至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、つねに不可思議の徳海を称念す。いよいよ斯を喜愛し、特に斯を頂戴するなり」(教行信証)
要旨をいうと、こうなる。
〝幸いにも、親鸞は、善知識方のお導きによって、十九願から二十願に入り、今、それらの方便から、十八願、真実へ転入した。
方便から真実に入って、はじめて、阿弥陀仏の大恩が、知らされたのである〟